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文献資料の乏しい川崎大師にとって、広い境内に残された数多い石造物は、歴史の間隙(かんげき)を埋める貴重な資料といえるでしょう。
とくに近世の冒頭を飾る寛永5年(1628)銘の六字名号塔(ろくじみょうごうとう)(市重要郷土資料)と、寛文3年(1663)銘の弘法大師道標(市重要歴史記念物)は、川崎大師の特質ともいえる庶民信仰のモニュメントです。
浅井了意の著した『東海道名所記』によれば、江戸の京橋に紀伊国屋作内と呼ぶ商人がおりました。彼は無筆文盲でしたが、熱心に大師を信仰し、機会をみては参詣を怠りませんでした。ある時参拝の帰り、六郷橋の上で筆を拾い、もち帰って墨をすり筆をとると、南無阿弥陀仏の六字名号がすらすらと書けるではありませんか。彼は随喜してこれを石碑に刻み、大師へ奉納したといいます。
また、弘法大師道標は、もと東海道川崎宿と大師道との岐路に置かれていたもので、大師参詣者は川崎宿へ入り、この道標に導かれて多摩川の河口へと進み、大師へ至りました。
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石碑の表面 に『大師河原 災厄消除 従是弘法大師への道』とあるように、江戸時代以来大師は厄除けの霊場で、歴代将軍の参詣も厄落しを主目的としています。
文化6年(1809)3月7日、大師を訪れた太田南畝(なんぽ)はその『調布日記』に
大師河原平間寺にいたる。去年の師走17日と26日詣でしなり。42の歳の厄とやらんいふものを除かんとて、必ず人の詣で来る所なるを、去年60にして初めて詣で、今日まで三度来れるもおかし
と記し、つづいて境内にあるさきの六字名号塔を拝し、その銘文を書きとっています。 なお、境内には、宝暦6年(1756)3月御三卿の一つ田安家によって奉納された宝篋印塔(ほうきょういんとう)、天保10年(1839)、川崎宿と大師門前を結ぶ大師道の道普請完成記念碑など、興味深い石造物があります。
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