日枝神社(古文書)

庚寅三月十六日付 後北条氏の虎の印判状
住所
中原区上丸子山王町1-1455
交通案内
JR・東急線「小杉駅」から市営バス川71・74系統「川崎駅」行き、「山王町1丁目」下車、徒歩10分
地図
解説
日枝(ひえ)神社所蔵縁起(えんぎ)によれば、当社は平安時代に近江(おうみ)国坂本に鎮座する日吉(ひえ)大社の御分霊を、稲毛庄内河崎村へ勧請し、のち現在の丸子の地へ遷座したと伝えています。
中世前期には丸子荘の荘園鎮守社であり、その所在地は武蔵・相模を結ぶ中原往還の多摩川渡河点に位置するという交通上の要地を占めています。
川崎市域に所在する数多い神社のなかで、近世以来神社附属の専従神職家が存在したのは、当社と川崎区・稲毛神社、宮前区・白幡八幡大神の3社のみです。それら3社は古くから広域な信仰圏をもち、地域の中核的な神社であったと考えられます。
当社には戦国大名後北条氏の虎の印判状(いんばんじょう)2点(市重要歴史記念物)以下、近世文書多数が所蔵され、社史や地域の歴史資料として貴重な価値をもっております。
このうち天正18年(1590)3月16日付印判状は、小田原城主北条氏直が境界争いを裁定した文書です。
すなわち多摩川の洪水で川筋が動き、このため上丸子郷と世田谷領沼部郷との間で争いとなった。そこで北条氏が検使を派遣して現地を調査し、その報告にもとづいて係争の地を上丸子分と認め、年貢の納入等を命じたものです。
この文書は、16世紀末期における郷の存在や、多摩川の流路の変動をうかがわせる資料として重要です。
近世に入ると、徳川幕府も20石の朱印状(うち5石は神宮寺である大楽院分)を与えて社地を保護しました。
境内には天正14年(1586)、豊臣秀吉が近江日吉大社境内に架した大神(おおみわ)橋の破損橋脚(きょうきゃく)の一部。延宝8年(1680)銘の庚申塔(こうしんとう)。野村文左衛門が明和・安永期(1764~1781)に中原往還にかけたいわゆる八百八橋の遺構の一部などが保存されています。
所有指定文化財
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