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豊臣秀吉の禁制

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2010年12月20日

豊臣秀吉の禁制

豊臣秀吉の禁制

解説

 「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事柄を広く知らせるために作成した文書で、別に禁札、制札とも呼んでいます。また、「禁制」は文書として記してあるだけではなく、木札に墨書して人目につきやすいところに掲げ、のちには駒形の木板に書いて提示される高札などによって示されるようにもなりました。
 天正18年(1590)の4・5月に、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を攻略するため、軍勢を進めたときに関東の主要な地域に「禁制」を出しています。川崎市域における、このときの「禁制」は、現在、4月に出された4点が明らかにされています。しかし、当時、郷や村に発給された実物の「禁制」は、市重要歴史記念物に指定されている文書だけです。この文書は、武蔵国都筑(つづき)郡麻生(あさお)郷内の地域である王禅寺村、古沢村、片平郷、万福寺村(川崎市麻生区)、黒金(くろがね)郷、石川郷、荏田(えだ)郷(横浜市青葉区)、三輪(みわ)郷(町田市)、大棚(おおだな)郷(横浜市都筑区)の9ケ所に宛てたもので、現在の市域及び周辺地域の一部の郷や村を対象として与えたものです。
 その内容は、三箇条から成っており、軍勢である兵士や従者が郷や村の人々に乱暴や狼藉(ろうぜき)をはたらくこと、放火すること、無理不当なことを言うことを堅く禁止する。もし、これに違犯した者は、直ちに厳罰に処する、というものです。これは戦場となった郷や村に対しての宣撫(せんぶ)工作であり、人心収攬を目的としたものです。この「禁制」を所蔵している小島氏は、系図や記録によると先祖の小島玄蕃貞治(げんばさだはる)が、室町時代の中期に麻生の地に土着し、その弟佐渡守高治(たかはる)は常安寺の開基になって、地域の開発に努めています。戦国時代に在地土豪であった小島氏に、この秀吉の朱印のある「禁制」を与えることによって、付近の郷や村への周知徹底をはかったといえます。こうした「禁制」が発給された約3ケ月後に後北条氏は滅亡し、徳川氏の関東入国による近世という新しい時代がおとずれたのです。

所有指定文化財

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