スマートフォン表示用の情報をスキップ

Language

サイト内検索の範囲

板碑(市民ミュージアム)

ツイッターへのリンクは別ウィンドウで開きます

twitterでツイートする

2018年7月20日

板碑(市民ミュージアム)

板碑 1基

年代

鎌倉時代〔弘安2年(1279)〕

法量

高さ 95cm
幅(上)51cm (下)53cm
厚さ 5.8cm

所有者

川崎市

所在地

中原区等々力1-2(市民ミュージアム)

指定

市重要歴史記念物 昭和39年10月20日指定

解説

 埼玉県秩父地方産の緑泥片岩で作られた、鎌倉時代後期の典型的な板碑のひとつ。この板碑は川崎市内のものの中では古い時期のものである。
 板碑は普通、その上部に仏をあらわす梵字が刻まれているものだが、この板碑では残念ながら種子をのせる蓮座より上の部分が欠けている。また下部も欠けているが、53cmという横幅から推定すると、もとの高さは2メートルを越すものだったと考えられる。とすると、川崎市内やその周辺では最大級といってよい大型の板碑だったことになる。
 この板碑には、草書体の銘文が刻まれている。ただ板碑表面の剥落が進み、下部にも欠損があるため、その銘文は完全には解読できないが、ほぼ次のように読み取れる。

板碑 銘文

 銘の意味するところは、遊了院なる人の父母の追善と、了印なる人の逆修(生前にあらかじめ死後の冥福を祈ること)のために、この板碑が建てられたというものである。そして2月日という造立月日からすると、この板碑の造立供養は春の彼岸に行われたものと想像される。
 なお『新編武蔵風土記稿』には「橘樹郡渡田村観音堂の古碑」として、「弘安2年己卯2月」銘の古碑が収められている。『風土記稿』では普通、板碑を古碑と記すことはよく知られており、また紀年銘もまったく一致することから、この古碑がこの板碑のことであることは間違いないだろう。すると、『風土記稿』ではこの古碑の大きさを「長二尺八寸」と記しているので、この板碑の現在の大きさとほとんど変わらないことになり、江戸時代にすでにこの板碑が断碑となっていたことが知られる。
 この板碑は昭和初年に土中から掘りだされたもので、『風土記稿』編纂の後、埋没したものと考えられるが、その事情については何ら伝えられていない。

板碑の各部名称

板碑の各部名称

このページに対してご意見をお聞かせください

このページは役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?

いただいたご意見は、今後の当ホームページ運営の参考といたします。

お問い合わせ先

川崎市 教育委員会生涯学習部文化財課

〒210-0004 川崎市川崎区宮本町6番地

電話:044-200-3306

ファクス:044-200-3756

メールアドレス:88bunka@city.kawasaki.jp