大山街道人物伝
  
岡本太郎
岡本一平・かの子の長男として、橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区)の母の実家で生まれました。
 大阪万国博覧会シンボル「太陽の塔」など数多くの作品を手がけ、「芸術は爆発だ」という台詞で一世を風靡します。 彫刻、絵画、写真、執筆など多才な才能は分野を超え、個性的なキャラクターと共に多くの人に親しまれました。
 1996(平成8)年1月7日、急性呼吸不全のため死去。享年84歳。

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岡本かの子
岡本かのこ写真  1889(明治22)年3月1日、東京赤坂青山南町の大貫家別荘で生まれました。本名カノ。跡見女学校卒業後、与謝野晶子に師事し、「明星」や「スバル」に短歌を発表しました。1910(明治43)年、上野美術学校の画学生岡本一平と結婚。翌年岡本太郎が誕生します。
  1936(昭和11)年、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』によって文壇に登場。
 その後、『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』などを発表。1939(昭和14)年2月18日、脳溢血にて死去。

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岡本一平
岡本一平写真 大正・昭和に活躍した漫画家。
東京美術学校を卒業して、東京朝日新聞に入社。
漫画や肩のこらない文章で大正期に人気を博しました。
妻は小説家の岡本かの子、長男は芸術家の岡本太郎。

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大貫雪之助
 明治20(1887)年2月22日橘樹郡高津村二子の大貫寅吉の次男として生まれます。
 第1高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新詩社」に参加しました。
 東京帝国大学英文科在学中、第2次「新思潮」の創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと共に同人として活躍。将来を期待されていましたが、大学卒業年の大正元(1912)年11月2日丹毒の病で急逝しました。
 光明寺境内の大貫家墓地に墓碑があります。

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上田忠一郎
 明治の初め、立憲政治をめざして各地に起こった自由民権運動。
 橘樹郡の拠点はここ溝口であり、上田家でした。
 上田忠一郎は民権結社を組織し、私財を投じて運動の先頭に立ちました。

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濱田庄司
濱田庄司写真 第一回人間国宝・文化勲章受章者。
溝口出身で少年期を父の家「大和屋」で過ごしました。
「陶芸こそ人の役に立つ」とのルノワールの言葉で、陶芸作家板谷波山が教える東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に進学。
卒後は京都市窯業試験場に従事。
河井寛次郎や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチと意気投合し、リーチと共に英国セントアイブスに窯を構え、最先端の芸術運動に触れました。
帰国後、栃木県益子で陶作に励み、世界各地の民芸品を収集し「益子参考館」に展示しました。
夏は益子、冬は沖縄で作陶し、1978(昭和53)年1月5日益子にて84年の生涯を終えました。
菩提寺の溝口宗隆寺で本葬され眠っています。

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国木田独歩
国木田独歩写真 明治30(1897)年みぞれまじりの春に、国木田独歩が訪れたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。
このことが独歩の作品「忘れ得ぬ人々」のモデルとなり、この作品によって独歩は明治文壇に不動の地位を築きました。
独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志なかばで世を去りました。
彼の俳友達が意思を継ぎ、独歩27回忌を記念し、昭和9(1934)年夏、亀屋の前に碑を建てました。
題字は島崎藤村が書いたもので、現在は高津図書館前に移されています。
国木田独歩の写真については、日本近代文学館からの提供です

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棟方志功
棟方志功写真 濱田庄司にその才能を見出され、可愛がられた棟方志功は溝口・二子周辺を度々訪れており、地域に多くの作品を残しました。現在でも宗隆寺の境内にある鯉の屏風絵などが残っています。

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