川崎市水道100年史(概要版)
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~令和3年~昭和56年~昭和39年kawasaki watersupply100th大正10年~昭和14年水道事業のあゆみあゆみ年[第4拡]第1導水ずい道出口(長沢浄水場)●「相模川河水統制事業」と第4期拡張事業その後も市域の拡大に伴う人口の増加、工場の新設などが続き、増え続ける水需要への対応が求められましたが、多摩川からはこれ以上取水できない状況でした。この頃、神奈川県を主体とした「相模川河水統制事業」(相模ダムを築造)の実施が決まり、川崎市も相模川の水利権を獲得したため、これを水源として第4期拡張事業に着手しました。相模川上流から川崎市までの約20キロメートルにも及ぶ導水ずい道や長沢浄水場の新設を進めていましたが、太平洋戦争の激化により工事の中断を余儀なくされます。戦後に再開しましたが、導水ずい道工事は全路線にわたって地盤が軟弱で、さらに地下水が大量に湧出したため、工事は水との闘いに終始し、難航しました。昭和27年(1952)3月、戦争による中断を含め約10年の歳月を経て、約21.6キロメートルの導水ずい道が完成し、昭和31年(1956)8月、長沢浄水場などのすべての工事が完成したことで、第4期拡張事業は終了しました。●第5期拡張事業昭和18年(1943)には39万人を超えた川崎市の人口は、昭和20年(1945)の太平洋戦争終戦後、その半分の20万人にまで減少しました。川崎市は壊滅的打撃を受けたものの、再び工業都市として発展し始め、また東京都のベッドタウンとしても人口が飛躍的に増加しました。それに伴う水需要も年々増加の一途をたどり、第4期拡張事業が完成する時には、すでに水量の不足が見込まれていたので、第5期拡張事業の実施を迫られました。この拡張事業では、多摩区菅にある井戸からの取水を増やすとともに長沢浄水場の施設の増強を行いました。第4期拡張事業~第5期拡張事業5相模ダムが完成津久井分水池が完成昭和22年(1947)6月昭和24年(1949)7月下九沢分水池が完成7月昭和27年(1952)3月第1導水ずい道が完成1月地方公営企業法の全面適用を受け企業会計制度を実施昭和29年(1954)11月長沢浄水場が完成昭和30年(1955)2月東京都への分水協定を改定10月末吉配水池が完成昭和28年(1953)市の人口が40万人を超える昭和15年(1940)市の人口が30万人を超える昭和16年(1941)12月太平洋戦争開戦昭和18年(1943)6月菅さく井が完成6月東京市への分水協定を締結9月生田第2浄水場が完成第4期拡張事業~S31相模川河水統制事業S15~24第4期拡張事業S17~戦争により中断暫定拡張事業S16~19

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