川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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62第7節 相模川河水統制事業1 背景 相模川は、幹川流路延長113km余の一級河川で、山中湖を水源とし、上流の山梨県内では桂川と呼ばれ、河口近くの下流は馬入川となって相模湾に注いでいる。 相模川は、明治初期まで生活用水、農業用水あるいは漁業等、その流域を潤すために利用された。その後、明治20年(1887)、都市の発達に伴う経済的利用を目的に、我が国最初の近代水道である横浜水道の水源として開発された。 明治末頃からは、上流桂川の急流部において発電所が建設されるようになり、大正末期には、支流の中津川、秋山川においても発電事業が行われるようになった。 また、相模原地区の開田開発計画に伴う引水事業も、明治初期から何度か企画されたが、いずれも技術的あるいは財政的問題等のため、実施には至らなかった。 一方、第1次世界大戦に伴う工業生産の増大や関東大震災の復興が人口の著しい増加や工場の増設を促し、それにより電気、水道用水の需要が著しく増大した。また、昭和6年(1931)の満州事変を契機として、重化学工業が飛躍的な発展を遂げた。この結果、横浜市水道をはじめ東京市水道も相模川に水源を求めるようになり、同時に発電計画、相模原開田開発計画等も相次いで立案された。このような相模川に対する各種水利事業の計画は、かねてから検討されていた県営発電計画と各種利水計画を総合的に解決しようとする河水統制の構想へと発展し、県は昭和9年(1934)に調査を開始した。 この事業は当初、「水利統制」事業と呼ばれていたが、政府部内で「河水統制」の用語が使われてから、「河水統制」事業と改められた。この「河水統制」の意味は、「河川上流部にダムを設け、これによって洪水時の流水を貯留し、洪水の害を除くとともに、併せて水の需要に応えんとするもの」である。 「河水統制」の構想は、昭和12年(1937)に神奈川県による川崎市臨海地区の県営京浜工業地帯造成事業の着手とともに、完成時に要する大量の用水及び電力の供給という面から、具体化の動きが活発になった。加えて電力国家管理問題が台頭したこともあって、県は急きょ、その実施に踏みきることとなった。河水統制事業実施に至る経過等については、昭和13年(1938)1月に臨時県議会に提出された「相模川の河水統制」に詳しく書かれている。「相模川の河水統制」の要旨・横浜市は、隣接町村の合併に伴う人口の急増及び工場の増設により急激に用水の需要が増大しており、道志川を水源とした供給は限界に達し、次回拡張水源は相模川本流に求めざるを得ない情勢となっている。・川崎市も同様に、工場地帯としての飛躍とともに人口の増加が著しく、上水道の拡張に迫られている。また、工業用水専用水道を応急で建設したが、将来的になんら解決を得ていない。従来、川崎市の各種用水は多摩川を水源としてきたが、すでに数十か所の取入口を有し新たに取水することは不可能であり、また二ヶ領用水もすでに農業用水に利用されており今第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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