川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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67「相模川河水統制事業による分水量及び費用分担に関する覚書」第5条に基く覚書 昭和32年2月25日神奈川県と川崎市との間に交換された「相模川河水統制事業による分水量及び費用分担に関する覚書」第5条に基き、両者の間に更に次のとおり覚書を交換する。  昭和30年2月15日締結した「東京都への分水協定」による分水期間中における取水量は、「東京都への分水協定」による分水量を控除したものとし、経費の負担率は「相模川河水統制事業による分水量及び費用分担に関する覚書」第3条の規定にかかわらず200分の103とする。  昭和32年2月25日神奈川県            神奈川県公営企業管理者        副知事  安井 常義川崎市             川崎市水道事業管理者         水道部長 村川 静造第8節 第4期拡張事業1 背景⑴ 市勢発展に伴う水需要の増加 昭和12年(1937)に始まった日中戦争が軍需工業を勃興させる等、臨海方面の重工業は、日本の工業界において重要な地位を占めるようになった。このような経済界の好況とともに、隣接町村との合併による市域の拡大によって水需要は増加した。 また、神奈川県営による京浜工業地帯造成事業が、昭和12年(1937)度から10か年計画で始まり、これが完了すると150万坪以上の工場地帯が生まれ、更に民有の荒涼地が工場地化されることで、最終的に約262万坪の大工業地区が出現する見込みとなっていた。この大工業地区に大小の工場が進出することにより、近い将来大量の水需要が発生することが予想された。 こうした急速な市勢発展を背景に、第3期拡張事業で、昭和20年(1945)の需要量を1日最大配水量5万㎥と予測していたが、昭和12年(1937)夏にはすでに、1日最大配水量が3万7,600㎥に達していた。そのため、第3期拡張事業の完了前から次期拡張を迫られる状況であった。⑵ 飽和状態の取水状況 右肩上がりで発展していく市勢の将来に対応するよう、水道施設を拡張していくことが急務の取組課題となっていたため、水源の確保について様々な検討を進めることとなった。しかし、既設水源である多摩川は、上流から河口にかけて、すでに数十か所にも及ぶ取入口から取水しており、新たに大量の水を取り入れることは不可能な状況であった。 また、比較的多量に引用されていた二ヶ領用水も、当時はまだ広大なかんがい面積を擁していたことから、農業用水等としても使用されており、将来農地の工場化・宅地化が進むまで大第8節第4期拡張事業

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