川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
109/810

71認可条件1.下九沢分水井ハ横浜市ト等量ヲ分水スル様其ノ構造ニ付更ニ考究スルコト2.急下水路付近黒川地内ニハ本落差ヲ利用シ相当容量ノ貯水池ヲ設置スルニ好適ノ箇所アリト認メラルルニ付成ルベク速ニ適当ノ時期ニ於テ該地内ニ貯水池ヲ設置シ送水ノ調整並ニ保安上万全ヲ期スルコト従テ本急下水路前後ノ導水隧道ノ位買ハ将来右貯水池利用ニ付有効ナラシムル様之ヲ変更スルコト3.導水路ニシテ屈曲甚ダシキ箇所ハ成ルベク直線トシ工費ノ軽減ヲ図ルコト4.沈澱池ノ容量ハ6時間分以上トナシ且之ヲ不慮ノ際ニ於ケル貯水池トシテモ利用シ得ル様設備ヲ為シオクコト5.1,350耗ノ送水用鉄筋コンクリート管ハ静水頭20米以下ニ於テ使用スルコト6.洗滌水槽ポンプ室等ハ成ルベク鉄材ノ節約ヲ図ル構造トスルコト⑶ 工事施行の経過 相模川河水統制事業による川崎市への分水が決定されたのを受けて、昭和13年(1938)度及び14年(1939)度にそれぞれ調査費を計上し、施設の測量等を行った。その後の施行は、以下のように進捗した。昭和15年(1940)2月工務課に拡張係を設け調査、設計に着手昭和17年(1942)6月実施設計認可8月導水路変更に伴う測量調査完了11月工事請負業者決定12月導水ずい道築造工事に着手昭和18年(1943)3月上水道建設事務所を設置5月浄水場工事に着手6月23日長沢浄水場用地において起工式 この後、太平洋戦争の激化で、工事継続は困難となった。昭和19年(1944)に入ってからは各都市とも激しい空襲を受け、交通も次第に麻ひし、工事の施行はほとんど不可能となった。昭和20年(1945)の空襲により川崎市は中心部のほとんどを焼失し、工事の続行が絶望的となったため、同年6月30日についに工事の中止を決定した。 工事中止までの施行状況は、次のとおりである。①川崎・横浜両市共同施行 ア 津久井分水池 川崎市、横浜市、県が工事費を分担、県に工事委託し、戦時中に完成 イ 導水ずい道(相模ずい道) 川崎市と横浜市が工事費を分担、横浜市が施行し、約60%完了 ウ 下九沢分水池 円形の水槽に変更施行し、約50%完了②川崎市単独施行第8節第4期拡張事業

元のページ  ../index.html#109

このブックを見る