川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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72 ア 導水ずい道 下九沢分水池から長沢浄水場までの高さ・幅2.6mの導坑掘削延長2万2,818mのうち、導坑掘削1万1,176m、コンクリート巻き立て785mを終了 イ 長沢浄水場 川崎市東生田地内の台地3万坪を買収し、場内地均工、沈でん池・浄水池の根掘りを開始 ウ 送水工事 長沢浄水場から末吉配水池までの延長1万6,450mのうち、口径1,350㎜ 管種:電気溶接鋼管で1万m、口径の1,350㎜ 管種:ヒューム管で6,450mを布設 エ 配水管布設工事 新川通りから池上新田に至る2,500mのうち口径600〜700㎜管で1,981mを布設⑷ 第1回設計変更 この設計変更は、昭和18年(1943)6月に東京市への1日20万㎥の浄水分水が決定したことによるもので、主としてこの分水に必要な浄・配水施設の築造と、合わせて着工以来の物価の変動に伴う各工事費の修正及び一部工事実施により変更が生じた内容となった。 この設計変更により、事業費を2,000万円追加して総額4,900万円とし、工事期間も昭和23年(1948)度まで延長することとした。この第1回設計変更は、昭和19年(1944)3月2日の市議会で議決を得て、同年11月7日に主務省へ認可を申請した。しかし、戦争の激化とともに資材・労力の不足等の関係から認可を保留され、工事を実施しないうちに、昭和20年(1945)8月に終戦を迎えた。昭和22年(1947)9月に戦後の急激な経済変動に伴う工事費の再検討と、川崎市の復興計画に適応するよう計画の再調査を必要としたため、結局申請を取り下げた。 また、東京都への分水協定書も、戦後の情勢変化に伴い改定することとし、昭和30年(1955)2月に改定協定書が締結された。4 戦後の工事⑴ 終戦後、工事再開までの経過①水道施設の戦争被害 昭和20年(1945)4月の空襲により川崎市の中心部が焦土と化したため、まずはこれら焼失地区の漏水復旧作業を最優先に行った。配水管の被害は、口径75㎜から口径600㎜まで113か所、延長2,208mに及び、また給水施設の被害栓数は1万7,751栓にものぼって、漏水率は実に最高79%にも達した。 給水施設の被害の大部分は家屋の消失によるものだったが、幸いなことに浄水場が直接の被害を受けなかったため、漏水復旧作業の進行とともに配水状態も好転し、戦時中に工事を中止していた本拡張事業の再開に向けて始動できることとなった。 昭和20年(1945)6月に中止して以来、導水ずい道の工事現場は、ほとんど放置されたままの状態で、導坑掘削箇所は坑木が腐り、崩壊の危険にさらされていた。翌年には特に危険な箇所を補修する等、その維持に努めたが、相次いで落盤が起こった。しかし、このような危険箇所を補修するにも、資材や人手が不足しているような状況であった。第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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