川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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81 第1工区においては、下九沢分水池から相模原地区を横断する間の地質は関東ローム層で、施行面から約7mまでは砂利層、それ以上は火山灰を含む粘土層であったが、湧水はこの粘土層からではなく、すべてずい道施行面の砂利層からであった。 工事期間の3年間の出水は、7、8月が最高で、11月頃から翌年5月頃までの7か月間が渇水期という状況だったが、出水期には23台ものポンプを使用して排水しても坑頂部まで達するなど対応が追いつかず、渇水期を待って工事を進めたり、境川まで2,000mもの排水路を設けて放流する等、困難を極めた。 第2工区のうち、東京都南多摩郡由木村地内、逓増距離5,400mから6,500mにわたる1,100mの間は、ずい道工事の中で最も難航した箇所であった。地質は、上流部約300mまでは凝灰質頁岩で極めて多量の滞水があり、下流側は灰色沈泥で湧水が一段と多かった。 1,100mの中間付近では1日3mの進度であったが、それより上流となると、極めて軟弱な地盤と多量の湧水に阻まれ、1日約1mの進度となってしまった。また、中間地点より下流側においても泥水を抑えることが出来ず、ついには導坑上部に洞穴を生じたため、工事を進めることが不可能となった。そのため、上流部・下流部ともに路線の変更をせざるを得なくなり、上流部ではコンクリートの巻き立てをした115m、下流部では約100mの導坑掘削部分の放棄を余儀なくされた。 工事契約は、物価、労務費の単価改正の都度改定し、更にこの湧水による難工事に対応するため、6回に及ぶ契約変更を行った。③工事補償 工事中、井戸水に影響を及ぼし補償した件数は90件に達したが、うち62戸は県営相模原水道から給水施設を施行補償し、その他28戸に対しては、井戸の掘り下げを行って補償した。また、山からの浸透水を引いて階段状の水田を耕作していた南多摩郡堺村、忠生村、稲城村及び川崎市黒川地区の山岳地において、ずい道内の排水を行っていた反対側で乾田が生じたため、工事中はずい道内の排水を鉄管によって山越えし給水を行った。しかし最終的には、湧水枯渇に対する補償は揚水施設の無償提供等により、また耕作被害に対しては打切補償を行って解決した。④10年間に及ぶ工事が完成 昭和16年(1941)8月に地質調査を開始し、翌年12月に着工して以来、全路線にわたる湧水と悪条件の地質に悩まされながら、戦争による中断を含め約10年の歳月を経て、ついに昭和26年(1951)11月8日に導坑掘削は貫通した。 更に、コンクリートの巻き立て、急下水路、鉄管伏せ越し、暗きょ及び水路橋等の工事を含め、昭和27年(1952)3月にようやく全導水路線2万1,636mが完成した。長沢浄水場で通水式が催されたのは、同年5月13日のことであった。第8節第4期拡張事業湧水でいっぱいになった導坑

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