川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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86導水ずい道工事(戦時中)における資材調達の苦難 下九沢分水井から長沢浄水場までの導水ずい道は、川崎市単独工事で、高さ幅とも2.6mの馬てい形とし、導水勾配1,500分の1をもって、自然流下により導水することとした。  昭和16年(1941)8月より測量・調査を開始し、約1か年を費やしその設計を完了した。工事は、下九沢分水井を起点として、下流へ4,148mを第1工区とし、以下長沢浄水場に至る延長1万8,670mを第2工区とし、セメントを支給することとして、翌年11月に入札を行い着手した。 戦争の激化とともに、次第に労力・資材とも不足し、公共事業に対する資材の配給・割当量も制限を受け、4半期ごとに割り当てられる資材の配給は、日増しに悪化する状態であった。支保工の木材も相当な数量を必要としたが、こと鋼材に至っては軌条車輪はもちろん、ボルトやかすがい釘等もすべて割当申請によるもので、しかもその申請は、工事説明書とともに詳細な算定書を提出し配給を受けるという条件であったため、その現物入手は非常に困難であった。 着工当初、工事請負人が台湾から船で資材を輸送しようとしたが、多数の軌条を船とともに撃沈されてしまい、その代替品の入手に努力したが調達できなかった。ようやく東京都水道局から当時工事中止となっていた小河内貯水池工事用の軌条を借用し、辛うじて着工することが出来た。 第2工区工事は、ほとんどが山岳地帯であったため、セメント及び骨材の運搬を索道によることとし、資材の獲得には非常な努力を払い、ようやく木材7,000石及び索鋼200tを得ることが出来た。昭和19年(1944)春には東京都南多摩郡関戸の多摩川畔を起点とし、別所までの7km、更に上流へ3.4km、下流へ10kmの索道を架設することが出来た。 コンクリート巻き立てについても、1mの工事のために0.7~1tのセメント容量を必要としたが、その割当は極めて少なく、県営相模川河水統制事業の分を譲り受ける等の努力を行った。 このように、資材不足に伴う調達の労苦は大変なものであったが空襲は次第に激化して、昭和20年(1945)4月15日の大空襲によって、川崎市の中心部が焦土と化してからは工事の続行は不可能となり、同年6月30日ついに中止となった。「長沢浄水場」とは? 「長沢浄水場」と呼ばれる浄水場には、昭和29(1954)年に運用を開始した西側の川崎市上下水道局長沢浄水場と、その5年後の昭和34(1959)年に運用を開始した東側の東京都水道局長沢浄水場の二つがある。前者は川崎市の第4期拡張事業によって建設され、後者は東京都水道相模川系拡張事業によって建設された。相模川から導水された原水は、「東京都への分水協定」に基づいて川崎市の長沢浄水場で原水のまま分水され、東京都の長沢浄水場で浄水となり、多摩水道橋を通って東京都の世田谷区や目黒区、大田区等へ供給される。これらの施設には当時の最新技術が用いられており、建築物もモダンなデザインであったことから、ウルトラマン等特撮作品の「ロケ地」としてもしばしば使われた。コラム執筆:元川崎市公文書館非常勤嘱託職員 北川 恵海 氏コラム ①コラム ②第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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