川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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87第9節 東京都との分水協定1 背景 東京市(都制は、昭和18年(1943)7月1日施行)は、年々急増する水需要に対処するため、昭和11年(1936)以来、小河内貯水池の建設を中心とする第2水道拡張事業のほか水道応急・配水施設両拡張事業を施行中であったが、更に将来の給水量が不足する見込みであったため、奥利根を水源とする大規模な第3水道拡張計画を立て、昭和17年(1942)5月事業認可の申請を行った。しかしその完成には、数年もしくは十数年を要し、完成までに能力をはるかに超える給水を実施しても、夏季には一部減断水が頻繁に発生する窮状にあった。また、第3水道拡張事業が予定どおり完了しても、その竣工時には数十万㎥の給水不足が予想されていた。そこで第3水道拡張計画樹立と並行して、応急的に相当量の給水増加を図ることが必要とされた。2 第1次分水協定の成立(浄水分譲) このような事情から東京市は、すでに施行中の相模川河水統制事業による川崎市に対する割当水量に相当期間の余剰量が存在することに着目し、水道拡張事業完了までの応急補給水量として、給水不足が最も深刻な城南地区に引用することにより、首都給水の危機を切り抜けるため、この旨を昭和17年(1942)5月に内務大臣に陳情した。 内務・厚生両省はこれを取り上げ、神奈川県に対し考慮するよう申し入れ、神奈川県は川崎市に東京市への一時分水について意見を求めた。これに対し川崎市は、東京市の実情及び戦時下の国策的見地から分水はやむを得ないものという前提で検討し、その結果、各施設の繰り上げ施行完成により昭和30年(1955)までは分水が可能であるとの結論に達し、県に対して次のような回答を行った。17川水業収第147号昭和17年7月8日神奈川県知事 近藤 壌太郎殿川崎市長 村井 八郎相模川河水統制事業ニ依ル川崎市水道用原水ノ一部ヲ一時引用方ニ関スル件 標記ノ件ニ関シ御照会ノ趣了承仕リ候右ハ東京市水道ノ実情ニ鑑ミ止ムヲ得サル次第卜存セラレ候ニ付テハ左記ノ通意見ヲ付シ御指示ニ添フ様取計度此段御回答申上候 追而本件ハ本市第4期拡張工事ノ実施ニ当リ浄水場ノ計画ニ一部ノ変更ヲ要スル次第モ有之候間至急何分ノ御決定相仰度申添候記1.分水量ハ1日最大205,000屯以内ニ於テ責任分水量ヲ定ムルコト2.分水期間ハ工事竣功ノ時ヨリ昭和30年迄トスルコト3.分水スル水質ハ上水トスルコト4.分水地点ハ本市高津地内ニ於テ既設1,000ミリ配水本管卜分水スヘキ配水本管トノ交叉点トスルコト第9節東京都との分水協定

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