川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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97多摩水道橋と登戸の渡し 多摩川にはかつて多くの「渡し場」が存在していた。江戸と相模方面を結ぶ津久井道(現在の世田谷通り)をつないだ「登戸の渡し」は、現在の多摩水道橋と小田急線の多摩川鉄橋の間にあり、昔から人や荷車等を渡してきた。近代以降も梨や柿、多摩川の鮎、肥料等を東京方面に運ぶ際に使われ、また東京側からは耕作や落ち葉拾いに行く者、行楽客等が利用した。大正14年(1925)に二子橋が、昭和2年(1927)に小田急線が開通すると利用者も次第に減少し、昭和28年(1953)の旧多摩水道橋架橋に伴い廃止となった。 多摩水道橋はその名の通り、川崎市から東京都へ水道水を渡すために建設されたものである。登戸(旧稲田村)や対岸の狛江村では明治末期の頃から架橋の計画があったが、昭和25年頃に長沢浄水場からの水道水を河底と橋梁のどちらによって渡すか検討がなされた際、両岸からの強い要望によって水道・道路併用型の橋の建設が実現した。当時、橋の名前を決めるに当たって「登戸橋」や「狛江橋」等の案が出されて対立が生じたが、最終的に建設大臣の命名により「多摩水道橋」に決定した。現在のアーチ型の橋は、平成7年(1995)に旧橋の上流側に建設され、更に平成13年(2001)に同型の橋が架けられて4車線となり完成したものである。コラム執筆:元川崎市公文書館非常勤嘱託職員 北川 恵海 氏コラム第10節 第5期拡張事業1 背景 川崎市は太平洋戦争によって壊滅的打撃を受けたにもかかわらず、戦後の一時期を過ぎると再び工業都市としての発展を始め、東京都のベッドタウンとしても注目されるようになった。 第4期拡張事業は、戦後経済のひっ迫から起債の調達が計画どおりには進捗せず、当初の完了予定である昭和25年(1950)度から5年遅れの昭和30年(1955)に完了したが、この年の1日最大配水量はすでに18万6,850㎥を記録し、第4期拡張事業の計画1日最大配水量19万5,000㎥に近い数字を記録していた。 また、臨海部に計画中、もしくは造成工事中であった県営・市営・民営の各埋立地に建設される工場群の多量の水需要や、首都圏整備法の施行による更なる水需要の増加が見込まれ、早急にその対応を迫られる事態となっていた。 そこで、川崎市は、第4期拡張事業に引き続き長期にわたる拡張計画を継続することとし、昭和31年(1956)4月に長期拡張計画基本方針を立案し、その一環として本拡張事業を施行することとした。2 計画の概要⑴ 規模給水区域川崎市一円計画給水人口49万8,364人第10節第5期拡張事業

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