川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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120第13節 第7期拡張事業1 背景⑴ 相模湖からの臨時分水 昭和30年代の我が国は、繊維工業を中心とする軽工業国から自動車工業、土木建築工業、化学工業といった重化学工業国へと産業構造を転換させていった。それに伴い、臨海工業地帯を抱える川崎市においても、人口増とともに同時に水需要が急激に増大していた。 水需要の増大は昭和37年(1962)には1日最大配水量36万4,500㎥を記録し、第6期拡張事業計画時の1日最大配水量38万5,000㎥を上回る勢いであったため、相模湖から1日5万㎥の臨時分水を受けるまでに追い込まれた。そこで、第6期拡張事業の完了前に本拡張事業計画の検討を開始するとともに、第6期拡張事業の設計変更を行い、市全域へ均等に配水するための配水区設定構想を盛り込み、同時にこれに基づく配水整備事業を施行することとした。 その間においても、水需要の増大は依然として続き、昭和38年(1963)には、相模湖から更に1日5万㎥を増量し、1日10万㎥の臨時分水を受けることとなった。これにより、臨時分水量が第6期拡張事業で増強する9万㎥を上回ることとなったため、本拡張事業の早期実現を図ることとなった。⑵ 相模川余剰水の新規配分 水源の状況をみると、多摩川をはじめ周辺水系はすでに開発し尽くされて飽和状態に達しており、将来に向けた新たな水源の確保が必要であった。水源の確保が課題であるのは、県内各都市においても同様で、県は昭和35年(1960)以来、酒匂川、早川、芦ノ湖総合開発について基礎調査を開始し、中間報告書を作成していた。 しかし、川崎市は前述のとおり施設能力が限界を迎えており、相模川総合開発事業に続く新たな水源開発事業の完了を待てない状況であった。そこで川崎市は、相模湖から臨時分水を受けていた1日10万㎥と、東京都の給水難緩和のため緊急分水していた1日10万㎥との合計1日20万㎥を水源として、本拡張事業を計画して施行することとした。川崎市は昭和38年(1963)10月、県に対し、次期総合開発事業による新規水源開発までの間、1日20万㎥の分水を要請した。 翌年3月、この要請に対して県から、「城山ダム建設計画は、当初、ダム下流部の水文資料がなくその流量算定が不可能であったため、ダム上流部の流出量のみを対象として計画を立てたものであった。その後、ダム下流部の流量観測及びこれに基づく既往水量の解析等により、ダム下流残流域から流出する流量とダム操作によって調整した流量とを加えて一定量とし、これを利用して新規取水可能量を生みだすべく検討を進めており、現段階でも城山ダムには約1,000万㎥の余裕貯水量がある見通しである」との回答を得た。その後、県の調査により、この新規取水量では、毎秒4.5㎥(1日38万8,000㎥)の取水が可能であることが明らかとなった。 この結果、相模川総合開発事業の共同事業者である神奈川県、横浜市、横須賀市及び川崎市の4者において、改めて各都市の水需要に基づき、配分水量の協議が行われ、昭和39年(1964)7月7日に次のとおり分水量が決定した。第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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