川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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141上流取水案下流取水案 この要請を受けて、県衛生部を中心に4事業者は酒匂川取水検討委員会(総務・水文・経済の3分科会)を設置して、あらゆる角度から種々検討した結果、上流取水は経済的には有利であるが、取水量が計画を大幅に下回ること、農業水利との調整が著しく困難であること等から、取水地点は下流の飯泉と決定し、昭和43年(1968)1月、厚生省にその内容を報告した。⑶ 補償交渉 昭和44年(1969)7月にダム建設地点が、酒匂川上流約30km、支川である河内川の山北町神尾田地先(世附川、中川川、玄倉川の合流点付近)に決定した。同時に酒匂川総合開発事務所を設置して、山北町に対し、県企業庁が中心となって「酒匂川総合開発事業調査の協力について」(全面立入調査)の申し入れをした。12月に入って山北町から提出された酒匂ダム建設についての要望を受け、「酒匂川総合開発事業対策本部」を設置した。こうして影響を受ける地域の住民に対し、補償交渉を開始した。 補償の主な内容は、水没家屋223世帯、水没人口1,026人、土地買収面積268ha等であった。昭和46年(1971)6月には水没個人補償要綱について水没者地権者協議会と交渉を開始し、11月には「酒匂川総合開発事業に伴う個人補償要綱」が県企業庁とダム水没者の間で調印され、個人財産の実態調査が始まった。また、昭和48年(1973)には「酒匂ダム(仮称)補償基準単価に関する協定書」が円満に調印された。このように短期間で妥結したことは、ダム建設史上では特筆すべきものである。 これら補償交渉と並行して検討されたのが、地域に残る住民対策であった。県企業庁では町や地元からの要望を基に種々のプラン、アイデアを出し、調査研究を加え、計画案の検討を続けた。昭和52年(1977)12月に山北町長から計画案に対する了解が得られ、県企業庁は計画に基づいて昭和53年(1978)度に施設整備事業を施行した。中核的施設としては、昔をしのぶ憩いの場、ダム見学者のための「丹沢湖記念館」及び三保地域の代表的な古民家(文久2年(1862)に建築)の納屋を移築した「三保の家」等がある。また、ダム直下流の土捨場等を利用し「ダム広場」を建設した。第14節酒匂川総合開発事業

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