川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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156酒匂川から川崎へ 二ヶ領用水や荒川、多摩川を改修した田中休愚(第1編第2章「近代水道の幕開け」を参照)は、その後、治水の経験を買われて幕府に酒匂川堤防の改修を命じられている。 酒匂川は洪水や富士山の噴火により幾度となく氾濫を繰り返し、幕府や小田原城主は対策に苦慮し、住民も困窮を極めたようである。休愚は幕命により享保11年(1726)、土手を改修し、今も「文命堤」と呼ばれる堤防を築造したが、そのわずか3年後、68歳で亡くなっている。 墓は幸区の妙光寺にあり、企業団系の水が混合配水される末吉配水ブロックである。休愚が眠ってから約250年、昭和49年(1974)の企業団西長沢浄水場の通水により、酒匂川の水が水道水となって配水されたことは休愚も驚いているだろう。コラム執筆:川崎市上下水道局水道部水管理センター 水道水質課担当課長 丹野 由花コラム田中休愚の墓所第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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