川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
308/810

270②生田浄水場 戦後、川崎市水道部は、東京都、横浜市、横須賀市と同様、アメリカ第8軍の監督下に置かれていた。昭和22年(1947)4月13日に生田浄水場は、占領政策の一環としてヒンマン中佐ら16名の査察を受けた。同中佐は、さく井水や伏流水の取水から配水までをつぶさに調べた後「すばらしい水質だ」と驚嘆して、この水質を守るために浄水場に警備の人間を置くように指示した。この査察には、川崎市から市長、助役、収入役、水道部長ら15名が立会った。 昭和35年(1960)3月、第5期拡張事業により生田浄水場送水ポンプ所内の1階に水質試験室が完成し、第3期拡張事業によって設置し、昭和14年(1939)以来使われていた試験室を閉鎖した。⑵ 残留塩素の変更 太平洋戦争中、我が国の多くの水道施設は爆撃によって漏水がおびただしい状態であった。終戦直後に進駐してきた連合国軍は、伝染病発生の危険防止策として主要都市に対し、塩素消毒を徹底して行うよう指令を出した。 川崎市上下水道局が保管する資料には、昭和21年(1946)1月17日付けとして、「東京、川崎、横浜、横須賀水道は塩素2.0ppm注入すべし」との命令が残っている。一方、厚生省(現・厚生労働省)は同年5月16日付け、衛生局長通知で「給水栓(水道末端)に於いて残留塩素が百万分中0.1〜0.4になるよう注入消毒すること」の行政指導を行った。 結果的に総司令部の指示で配水管末における残留塩素は、0.4ppm以上に強化されることとなった。従来の0.1ppmから一挙に4倍もの注入率となるが、これを実施するには費用もかかるため、川崎市は従来通りの残留塩素を主張した。しかし、聞き入れられず、そのかわり0.4と0.1の差、0.3ppm分の費用を進駐軍が負担することになった。⑶ 本格的な浄水場の水質管理①長沢浄水場 昭和29年(1954)の上水第4期拡張事業により、相模湖を水源とし、薬品沈でん・急速ろ過方式を採用した長沢浄水場が完成した。 当時の先進各都市の状況は、水質の汚染問題が少ないこともあって、水質技術者は水質検査が主体で、障害等が生じた場合のみ浄水処理に関与するという仕組みが主流であった。しかし、川崎市では、浄水処理における水質管理こそ水道の安全性を確保する基本であるという考えから、浄水処理に対しては常に水質技術者が関与する体制を導入した。 第5期拡張事業(昭和32年(1957)4月〜昭和39年(1964)3月)における長沢浄水場の増設工事の中で、本格的な水質試験室を浄水本館内に設置した。浄水処理における計測方式の採用と、高度な水処理技術への要求に対応できる水質試験施設として、次のような役割を担った。水質試験室第1編上水道第6章安全で良質な水道へ水質の探求

元のページ  ../index.html#308

このブックを見る