川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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338第1節 創設の機運1 明治時代⑴ 菅・中野島の紙製造 明治初期の川崎市の工業は、零細な紡績業や食糧品加工業がわずかにあるばかりで、これらが今日の近代産業に繋がるものではなかった。 こうした中、和製唐紙は明治に入ってからも東京等の消費地向けに生産されていた。生産の中心は、中野島村の田村家、菅村の安藤家、五反田村の白井家等であり、旧幕時代から同業組合を結成し、独占的な生産をあげてきた(『川崎市史』昭和43年(1968)10月発行)。明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)に開かれた内国勧業博覧会に、市域から美濃紙、泰平紙、漉返紙等が出品されていることからすると、少なくともこの年代頃までは、菅・中野島付近の多摩川は紙製造のための工業用水源として重要な働きをしていたことになる。これらの和製唐紙等の生産は、外国からの輸入品の影響で明治中期頃には姿を消した。⑵ 大工場の進出 川崎市における工業は、日露戦争以後の産業革命の終了と電気・水道・ガス事業の発達とが相まって、民間企業の誘致を促したことで開花した。明治39年(1906)に操業を開始した横浜精糖を初めとして、明治42年(1909)に東京電気、明治43年(1910)に日本蓄音機、明治45年(1912)に日本鋼管等の大工場が川崎市に立地したのが大きな要因であった。 これらの大工場では井戸を掘り、地下水を工業用水として使用していた。日本鋼管では製品の表面を滑らかに仕上げるため、井戸水で酸化スケールを取り除いていた。この井戸は、海岸部では塩分を含むため、少し離れた現在の日本鋼管病院あたりの湿地帯につくられていた。2 大正時代⑴ 川崎100年の町是 東洋有数の紡績会社である富士瓦斯紡績は、水力発電による電力を動力等に利用するため、静岡県小山町に工場を設置した。その後水力発電事業の発展に伴い、水源地から離れていても電力の供給を受けることが容易になったため、明治45年(1912)に京浜地方に大規模な紡績工場を建設することを決定した。  そこで川崎町長の石井泰助は、同社に対して、日本蓄音器商会工場の南、久根崎の競馬場跡地等で地元が積極的に尽力することを申し入れた。更にこの後、受け入れ態勢を強化するため、明治45年(1912)7月、町会に対して「工業招致を川崎100年の町是とする」ことを提案し、満場一致の賛同を得た。これらを受けて富士瓦斯紡績は大正3年(1914)7月に川崎町での操業を開始した。菅村玉川唐紙製造所(部分)(明治15年銅版画)第2編工業用水道第1章全国初の公営工業用水道

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