川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
377/810

339 更に大正3年(1914)9月には、同じ久根崎地区の日本蓄音器商会工場東側堤外地に合資会社鈴木製薬所の「味の素」製造工場が完成した。用水の利便等を考えて多摩川の下流に用地を選んだ経緯については、味の素株式会社の『社史』に次のような記述がある。 明治末期から、大正初期にかけての京浜地方における本格的な工場建設の適地は、用水・排水の便宜から主として荒川、中川、小名木川および多摩川の近傍に求められ、とくに食品や化学工業は原料および製品の大量輸送の利点から、小名木川一帯の江東地区に集中していた。だから三郎助も、これらの諸地域を中心に土地を物色したようであるが、結局、多摩川の下流の地域に新工場を建設することに決した。彼が多摩川下流を選んだのは、この地域が住宅地から遠く離れていること、土地買収が容易なことなどの条件があったためであるが、そのほかにも葉山から比較的近いことが、心理的に大きく作用したように思われる。 最初は、東京府下の六郷村(いまの大田区六郷町)を予定したが、地元の農民や漁民のなかから塩酸ガスや廃液の被害を予想して反対運動が起こされた。しかし対岸にあたる神奈川県側の橘樹(たちばな)郡川崎町(いまの川崎市)では、果樹園を経営する農民のなかには反対者があったが、町長はじめ土地の有志者は川崎の経済発展のために大工場の設置に好意的で、便宜を図るところがあった。また鈴木家自身が、もともと神奈川県の出身者であるところから、初代社長の鈴木三郎助はじめ一家の人びとには、神奈川県下に工場を置きたいとの気持があり、計画は川崎に設立することで落着した。そして三郎助は川崎町の当局者とともに、地元に対して新工場は硫酸法による製造方式であるから塩酸ガスは発生しないこと、有害な廃液は工場内で処理することを説明し、地元の了解を得たのであった。富士瓦斯紡績株式会社川崎工場全景(大正末期頃)建設当時の味の素川崎工場(絵)第1節創設の機運

元のページ  ../index.html#377

このブックを見る