川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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340⑵ 臨海工業地帯埋立事業 積極的な工場誘致運動により、多摩川下流沿いには近代的大工場が相次いで進出した。とりわけ、その右岸では石井泰助が工場誘致に大きく尽力した。一方、南隣の田島村から鶴見川河口に至る臨海地帯では、埋立による工業用地の造成の動きがあった。ここで主導的な働きをしたのは、明治29年(1896)に東洋汽船株式会社を設立した浅野総一郎であった。 浅野総一郎は、日本が発展するためには、欧米にならって港湾、水運を利用した臨海工業を振興させる必要があると考えた。そこで欧米先進国の港湾都市を事細かに視察した後、大森・品川の沖から多摩川河口を経て鶴見川河口に至る広大な遠浅の海岸が、埋立に適しているとの結論を得た。彼は、この埋立に際して、海底の土砂を利用すれば同時に本格的な港湾が埋立地の前面に出来ると考えた。また、川崎は東京・横浜の二大都市への陸運も便利であることから、理想的な工業地帯になると確信し、臨海工業地帯埋立事業の具現化を図った。 この構想は、当時としてはあまりにも大規模な計画であったため反対もあった。しかし、浅野は、安田善次郎及び渋沢栄一等、当時の財界、経済界の大御所の協力を得て、明治45年(1912)に鶴見埋立組合を組織し、工業地帯埋立事業に着手したのである。 こうして臨海工業地帯埋立事業は大正2年(1913)から始められ、更に第一次世界大戦による好景気が川崎の工業化に拍車をかけた。富士瓦斯紡績(大正2年(1913))、鈴木商店(大正3年(1914))、浅野セメント(大正6年(1917))、富士電機、明治製菓(大正14年(1925))等の大工場が次々と進出し、川崎は工業都市としての基盤を確立していった。以後、市勢の発展とともに工業都市として堅実な歩みを続け、工業用水道創設前までに設立された会社・工場数は、大小合わせて103に達した。ちなみに、鶴見埋立組合は大正3年(1914)に資本金350万円の鶴見埋築株式会社となり、大正9年(1920)1月には資本金1,250万円の東京湾埋立株式会社にまで成長した。臨海地帯の埋立風景当時の川崎3 昭和時代⑴ 京浜工業地帯の中核都市へと成長 臨海工業地帯埋立事業は順調に運び、175万坪の広大な埋立計画は、着手以来16年余の歳月を費やして昭和3年(1928)6月に完了した。そして埋立地は民間に売却され、重化学工業を中心に工場が次々建設されたのである。また、主要道路や沿岸設備等の整備も進み、鶴見臨海第2編工業用水道第1章全国初の公営工業用水道

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