川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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341鉄道及び南武鉄道が敷設されたほか、新鶴見、浜川崎間の連絡線が完成した。 一方、民間の埋立事業の成功に刺激され、更に京浜運河の開削を望む経済界の声もあって、昭和2年(1927)には、内務省の臨時港湾調査会が京浜運河の開削計画を決定した。この計画は、横浜港から鶴見・川崎・多摩川河口・羽田及び大森を経て東京湾と通ずる航路を開削して、1万トン級船舶の航行を可能にするとともに、そのしゅんせつ土砂によって京浜間に約420万坪の埋立事業を展開するものであった。 この埋立事業は、東京市と神奈川県が実施することとなった。神奈川県では、水江町から多摩川河口までの川崎市前面の区域150万坪の埋立を企画し、昭和11年(1936)に「京浜工業地帯造成事業」として、翌年度から10か年の継続事業として実施することを決定した。 民間による埋立の完成と県営による埋立計画の具体化、更には昭和6年(1931)に勃発した満州事変による好況もあって、重化学工業の進出が著しくなり、川崎市は、京浜工業地帯の中核都市として急速に成長していった。⑵ 民営による工業用水道建設計画 川崎市が重化学工業を中心とした工業地帯として形を整え始めた頃、これらの工場で使用する工業用水は、海水や工場付近の井戸水に頼るほかはなかった。しかし、各工場が各所でさく井をした結果、地下水位の低下あるいは取水不能に陥った井戸が続出し、工場生産に支障を及ぼすこととなった。更には、地下水の過剰な汲み上げによる地盤沈下も見られた。例をあげると、昭和6年(1931)から昭和18年(1943)の間に、渡田2丁目で135㎝、宮本町で51㎝地盤沈下したのである。 そこで、特に多量の工業用水を必要とした日本鋼管、昭和肥料及び東京湾埋立の3社は、昭和10年(1935)10月に日本鋼管顧問技師の伴宣に依頼して、新たな水源を探る調査を始めた。水源を工場地帯に比較的近い多摩川沿岸に求め、その伏流水を利用するためである。しかし、2か月後に同氏が急逝してしまったため、日本鋼管は新たに茂庭忠次郎、昭和肥料は横山武一、東京湾埋立は関毅を顧問に迎え、本格的な用水対策に取り組むこととなった。 3氏による現地調査の結果、多摩川の伏流水は、水質・水量ともに確実性がないと判断された。更に、矢上川及び渋川(ともに一級河川鶴見川水系の支流)の表流水が調査されたが、両河川とも夏季には相当の水量がかんがい用水として使用されることが明らかとなり、これも水源として不適当であるとの結論に達した。また、相模川の豊富な水量を工業用水として引水する構想もあったが、種々の事情から早急に実施することは難しい状態であった。 結局、応急対策として、水源をさく井により求めることとなった。そこで調査を行ったところ、幸いにして、川崎市中原町地内及び橘樹(たちばな)郡日吉村地内に地下100尺(30.3m)〜120尺(36.36m)の範囲で相当量の含水層が発見され、水質も比較的良好であることが判明した。工業用水としての利用に支障なく、水量も1井当たり1日3,600㎥を揚水することが可当時の臨海地帯第1節創設の機運

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