川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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352第1節 第1期拡張事業1 背景 川崎市の工業用水道は、昭和12年(1937)7月に我が国初の公営工業用水道として、一部給水を開始した。1日契約水量は5万5,000㎥であった。しかし、昭和14年(1939)には、日本鋼管から(1日1万8,000㎥)の追加契約申し込みがあり、更に浅野セメント(1日4,000㎥)、日立工作機(1日500㎥)からも新規契約申し込みがあったため、1日給水量は7万7,500㎥に達した。 また、昭和15年(1940)7月から水源の一つである宮内水源地は上水道で再使用することになったため、二ヶ領用水に支障をきたした場合には、創設時の契約水量の供給さえ困難となる状況が考えられた。更に日中戦争の影響による軍需景気が、会社工場の工業用水需要を増加させることが推測された。 このため、川崎市は工業用水道の第1期拡張事業を施行することとなった。2 計画の概要⑴ 規模給水対象  12社1日給水量 8万1,000㎥⑵ 工事計画 上丸子地先の多摩川の表流水を水源とし、右岸の堤防から左岸に向かう144.5mの位置から77mの区間に、深さ1.3mの開きょを造り、その末端に制水扉を設け、毎秒700Lを取水することとした。取水した水は、ヒューム管2条で取水ポンプ井に導水することとした。取水ポンプ場には、揚水ポンプ3台を設置し、取水ポンプ場から平間水源管理所構内の沈でん池までの間に導水管を布設し、ポンプ圧送により導水することとした。 また、平間水源管理所の沈砂池等の改造や沈でん池の増設等を行うこととした。3 計画の変更 昭和14年(1939)に市議会で可決された当初計画では、水源を上丸子地先の多摩川の表流水としていたが、内務省(現:総務省)において昭和15年(1940)9月から下沼部地先の河床を深くしゅんせつした影響により塩分の含有量が著しく増加し、水源として不適当であることが分かった。このため計画の変更を余儀なくされ、新たな水源地を求めて調査していたところ、昭和16年(1941)8月に稲毛・川崎二ヶ領普通水利組合が管理していた二ヶ領用水が川崎市に移管されることになった。そこで、二ヶ領用水の余剰水を水源とすることとした。 また、神奈川県が昭和16年(1941)度から昭和18年(1943)度にわたる事業として、二ヶ領用水の取入口である上河原及び宿河原の堰堤工事を行うことを受け、これに並行して用水路の改修を行い、二ヶ領用水の余剰水を利用することが得策と考え、それに基づいた新たな工事計画を立てることとした。第2編工業用水道第2章高度成長期を支える工業用水道の拡張

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