川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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377第9節 第3期拡張事業1 背景 戦後の日本経済の急速な発展と臨海工業地帯の埋立事業の推進によって、川崎市は工業都市として飛躍的な発展を遂げた。工業用水の需要も著しく増加し、拡張工事が完成してもすぐに供給が不足する状況であった。 昭和33年(1958)後半から始まった岩戸景気と呼ばれる好景気の中で、市内の各工場は需要の伸びを予測して施設の拡充を図った。また、同年度に完成した川崎市営及び東亜港湾による埋立地区や、昭和37年(1962)度までに完成予定の神奈川県営による埋立地区等に建設される工場への工業用水の需要が大量に見込まれた。川崎市はこれに対処するため、昭和34年(1959)1月に昭和40年(1965)度を目途とする会社工場の希望水量を調査した。その結果は次のとおりである。市営及び東亜港湾埋立地区7万8,500㎥県営埋立地区11万2,000㎥既存工業地区12万8,600㎥  計31万9,100㎥ この調査結果に基づき、昭和34年(1959)3月、予定給水量1日46万6,000㎥(既設給水量1日21万6,000㎥、拡張による給水量の増強分1日25万㎥)の施設能力を目指す基本計画を立案した。2 計画の概要⑴ 規模給水対象  40社 1日給水量 24万㎥⑵ 工事計画①当初計画 水源は、市内菅及び生田地区に築造する6か所のさく井から1日5万㎥のほか、農地の宅地転用によりかんがい用水の使用量が減少したことで水利権に余剰が生じた多摩川伏流水1日20万㎥に求めることとした。このため、川崎市は昭和32年(1957)11月18日に東京都知事及び神奈川県知事あて、取水目的一部変更の申請を行い、翌年1月31日に許可を得た。更に昭和34年(1959)3月4日、工業用水の取水位置及び方法と渇水時における取水量の配分について、別途協議する旨の「多摩川における水利使用に関する覚書」を神奈川県、東京都両知事を立会人として、川崎市長と東京都水道局長との間で交換した。 さく井による1日5万㎥は第1導水管によって生田送水ポンプ所へ導水し、多摩川伏流水の1日20万㎥は二ヶ領用水菅取入口付近に建設するポンプ場から、第2導水管によって同じく生田送水ポンプ所へ導水することとした。ここから平間水源管理所まで2号送水管を布設することとした。第9節第3期拡張事業

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