川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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378 更に、第2期拡張事業で布設した1号送水管から南加瀬地内で分岐させ、渡田町地内に築造する調圧水槽まで3号送水管を布設し、相模川系統の用水を切り替え送水することとした。 平間水源管理所構内調圧水槽から四谷上町地内まで3号配水本管、渡田町地内調圧水槽から浜町地内まで4号配水本管を布設し、それぞれ既設配水本管と連絡することとした。また、県営埋立地区へ配水するため、1号配水支管を布設することとした。②第1回設計変更 川崎市は当初、多摩川から1日20万㎥を取水する方法に関して、各工場との間で工業用水供給基準(水温20℃、濁度10度以下)に適合することと取り決めていたため、伏流水取水を計画していた。そこで前述の東京都水道局との覚書に基づき、多摩川からの取水方法に関して、神奈川県及び東京都の3者で協議を重ねた。ここで東京都は、取水井を設置して伏流水を取水すれば下流の取水権に影響を及ぼすおそれがあるとして、表流水の取水を強く主張して譲らなかった。こうして本拡張工事着工以来、2年を経過しても1日20万㎥取水の関連工事に取り掛かることが出来ない状況が続いた。 この間、日本経済は著しく伸展し、川崎市における工場生産も増大の一途にあった。とりわけ臨海工業地帯には大工場が続々と建設され、その一部はすでに操業を開始していた。これ以上工事を引き延ばすことは許されない状況となったため、川崎市は昭和36年(1961)5月、当初の伏流水取水の計画を断念し、表流水取水の方針に変更した。 表流水を取水するためには、沈砂設備及び沈でん設備の築造が不可欠となり、これに伴い用地も必要となる。また、資材及び労務費の値上り及び県営埋立事業計画が拡大し、配水管の延長を余儀なくされ、工事費は9億7,000万円の増額が必要となった。そこで、昭和37年(1962)3月3日市議会に「継続年期及び支出方法中変更について」の議案を提出、同年3月30日議決を得て総事業費を44億3,000万円に変更した。③第2回設計変更 昭和37年(1962)度に本拡張事業及び上水道第5期拡張事業が完了すると、水源能力は工業用水道46万6,000㎥、上水道29万5,000㎥、計1日76万1,000㎥となる。この水量の52%に相当する39万5,000㎥は多摩川を水源とすることから、多摩川の渇水時には川崎市全体の給水能力に大きな影響を及ぼすおそれがあった。 そこで、渇水時における多摩川系水源の取水量の不足を補うため、本拡張事業で先に築造した菅地内のさく井4井に予備用取水ポンプ4台を増設し、新たに、中野島地内に予備井1井を築造することとした。また、原水を生田送水ポンプ場に導水するために、導水管口径400㎜鋼管、延長350mを布設した。更に、浄水工事は、地域の要望により、沈でん設備から排出される排水の処理を行うため、排泥処理池1池と排水路一式を新たに築造することとした。また、稲田取水場では、二ヶ領用水取入口及び導水路、沈砂池等の工事を予定した。これらのことから、工事費は2億5,000万円の増額を必要とし、昭和37年(1962)9月市議会の議決を得て、総事業費を46億8,000万円に変更した。第2編工業用水道第2章高度成長期を支える工業用水道の拡張

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