川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
43/810

5第2節川崎市の変遷第2節 川崎市の変遷1 用水の完成と川崎宿 川崎という地名が文献に登場するのは、平安時代後期のことで、この地に移って荘園を開いた秩父基家が地名をとって「河崎冠者基家」と名乗ったことに始まるといわれている。鎌倉時代には、北部は稲毛三郎重成が領し、南部は佐々木高綱が所領とし、更に、北条氏の時代に入ると、北条氏に属する豪族や家臣の所領に分けられていた。 徳川家康が、江戸に幕府を開いて間もない頃、この地の代官となった小泉次大夫が、「稲毛・川崎二ヶ領用水」を開削した。多摩川から引いたこの用水は、川崎の農産業を飛躍的に発展させ、以後、現在の川崎市の発展にまで大きく寄与してきた。 東海道五十三次の53番目に指定された「川崎宿」は、元和9年(1623)に久根崎・砂子・小土呂・新宿の各地区が併合され、東海道の宿駅の一つに加えられた。その後、次第に人馬の往来も多くなり、多摩川の渡船場をあずかる宿場として繁栄した。2 明治維新と市町村制 しかし、明治維新によって宿場制度が廃止され、更に鉄道が敷設される頃には宿泊者も減少し、町は次第に衰退の傾向をたどり、川崎大師の参詣人によって多少の賑わいを呈するに過ぎないという状態となった。 明治22年(1889)に市町村制が施行される際、新宿・砂子・小土呂・久根崎と堀の内を合わせて川崎町となり、同時に現在の市域に14村が置かれた。 町制が施行された当時の面積は3.65㎢に過ぎず、明治30年(1897)頃の川崎は、人口わずかに4,800人、町の年間予算も5,000円たらずで、今では想像がつかないくらい閑散とした町であった。3 郡制の施行 明治23年(1890)7月1日に現在、川崎市域である川崎町ほか13村と、横浜市の市域である神奈川町ほか8町村を合わせた23町村をもって橘たち樹ばな郡とする郡制が施行され、地方自治制度の一機関となった。(郡制は大正12年(1912)3月31日をもって廃止)川崎町役場の様子を描いた画橘樹郡役所

元のページ  ../index.html#43

このブックを見る