川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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64 工業都市化の始まり 日露戦争を契機として、日本は近代産業に繋がる工業の興隆期を迎え、東京、横浜に隣接する立地条件の良さから、川崎は工業用地として注目されるようになった。また、川崎は多摩川による水利の便と、明治5年(1872)に開通した国鉄に加えて明治32年(1899)に開通した大師線と、それに続く京浜電気鉄道本線の敷設等による鉄道運輸の便からも注目された。 明治39年(1906)には、明治製糖が建設され、次いで、東京芝浦電気、日本コロンビア等も建設された。町・民一体となった積極的な工場誘致運動が成果をあげ、その後次第に他の工場も建設されるようになり、人口もまた年々増加して、川崎は工業都市として発展し始めた。5 町村合併から市制施行へ 川崎の工業都市化は、第1次世界大戦による軍需品を生産する会社・工場の設立によって一段と進み、やがて工業都市として同じような立地条件をもつ御幸村・大師町との合併を促すこととなった。合併運動は大正2年(1913)から始まり、大正10年(1921)に川崎町に水道が布設されたことで、合併の機運が急速に高まった。 大正10年(1921)に、田島町を除く大師町・御幸村との間に合併の協議が進められ、途中、同年9月の関東大震災によって一時中断したものの、震災による災禍の経験が、かえって合併を促進することとなった。大正13年(1924)2月に3町村会議員による合併に対する連絡協議会が設置され、同年7月1日に合併と同時に市制を施行し、面積22.23㎢、人口約5万人の川崎市が誕生した。 大正9年(1920)に日本を襲った経済恐慌は、川崎の産業にも大きな打撃を与えたが、震災後の復興期には、東京方面で被災した工場が相次いで川崎へ建設地を求めるようになり、再び活発な経済活動を開始することとなった。大正の末期には、産業鉄道としての鶴見臨港鉄道(浜川崎〜扇町間)及び南武鉄道(浜川崎〜立川間)が敷設され、更に鶴見操車場も建設されて、臨海埋立地の整備拡張と相まって川崎の産業基盤が確立されていった。 更に川崎市は、昭和2年(1927)に田島町と合併し、次いで、昭和8年(1933)には中原町と合併して、市域も市制施行当時の約2倍の44.2㎢となり、人口も約14万人に増加した。 昭和2年(1927)の金融恐慌から引き続いた世界的恐慌は、川崎市の工業に再び大打撃を与えた。しかし、恵まれた立地条件のもと全市をあげて工場誘致を進めた結果、次第に大きな工市制施行当時の川崎市役所昭和6年当時の川崎駅前通り第1編上水道第1章川崎の誕生

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