川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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12第1節 稲毛・川崎二ヶ領用水と川崎1 小泉次大夫と二ヶ領用水の開削 多摩川の下流、東京湾へ注ぐ河口近くを昔は六郷川と呼んだが、その六郷川に接した狭い地域が、町制施行当時の川崎であった。その川崎とその周辺一帯に大きな恵みをもたらしてくれたのが、稲毛・川崎二ヶ領用水である。多摩川の対岸にも同じく江戸時代に築かれた人工用水の六郷用水があり、世田谷・六郷の二ヶ領を流れていたことから、両者を併せて四ヶ領用水とも呼ぶ。 この二つの用水を開削したのが、徳川家康の家臣である小泉次大夫(1539〜1623)である。水利土木に関する高い技術を持っており、江戸近郊の開発の一環として、多摩川の治水工事と両岸のかんがい用水工事を手掛けることになった。慶長2年(1597)に測量が開始され、左岸(六郷用水)と右岸(稲毛・川崎)を交互に開削しながら、下流から上流へと工事が進められた。 この間、小泉は小杉陣屋を拠点として陣頭指揮にあたり、開削地域の農民たちの全面的な協力を得て、稲毛・川崎二ヶ領用水は慶長16年(1611)に完成した。その15年にわたる苦心の模様は、『稲毛・川崎二ヶ領用水事績』に次のように記されている。『小泉次大夫巡検図』大田区立郷土博物館所蔵馬上は小泉次大夫で、左の方を向いている。この左右には名主などが21人いる。手前は多摩川の流れで、船頭の他に乗客が2人、河原には漁師が一人釣竿を肩にしている。場所は「丸子の渡」か。左手上の山は、沼辺富士とあるので、沼部の浅間山である。第1編上水道第2章近代水道の幕開け

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