川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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13第1節稲毛・川崎二ヶ領用水と川崎 用水堀は慶長二年から着手して同十六年に完成したとすると、其の間實に十五年といふ長い星霜が費されたのである。此の長い間工役に服した百姓の勞苦は眞に思ひ遣られる。領内の村々、其の家數はと云へば僅に七八軒、多くて十軒、而かも田塲でありながら米が無い、人足の扶持には麥、稗、粟、大豆などを當てがつて、年々様々に御普請相勤めたと嘆息を洩らしてある。然し此の工事さへ無事に出來上がれば米が取れる、と云ふ前途の希望があつたればこそ斯うした忍耐も出來たのであるが、それにしても村々百姓の辛棒强い事には敬服せざるを得ないのである。 此の用水堀を俗に義大夫堀と言はれるが、之は次大夫堀の訛りに相違なく、一名又女堀とも唱へられる。開鑿工事中兎角工事が捗取らないので次大夫は一策を案出し、若い女共を雇つて男十人に一人の割で配置したところ、其れ以來工事が大に進捗したので女堀の名あらしめたと傳へられる。然し女堀の名は前にもある如く富士淺間の山の腰の女堀に起因したものと思はれるが、男十女一の傳說が事實とすれば、忍耐强い百姓共も長い間の勞苦に疲れて、時には嫌氣のさした事もあつたであらう、これは人情として無理からぬこと、其れ丈け彼等の辛苦が後世子孫への絕大の遺產としてとして價値を保つのである。〔以下略〕 かくして多摩川右岸の稲毛領と川崎領を貫流する全長約32㎞に及ぶ用水路が完成した。多摩川中流の中野島と宿河原の二か所(当初は中野島のみ)から水を取り入れ、そこから自然の勾配や多摩川の旧河道を利用しながら多摩川下流域へと至る。用水路の本流からは各村の田1枚ごとに水を運ぶ細かな小堀が網の目のように引かれた。当初のかんがい面積は1,876町歩、およそ100年後の享保2年(1717)には2,007町歩(約2,000ha)に達し、現在の川崎市ほぼ全域と横浜市鶴見区を含む約60か村の水田を潤した。 完成した二ヶ領用水の維持管理を行うために、60か村で経費・人足を拠出して用水組合が組織されたほか、分水された小水路や堰ごとに20以上の小組合が結成されていた。各用水組合は、日常的な清掃・保守管理を行ったほか、用水の配分方法や経費の負担方法などを協議する場としても機能した。2 田中休きゅう愚ぐと二ヶ領用水の再生 二ヶ領用水が完成してから約100年が経過すると、堤の崩落によって堀が狭くなったり、土砂の堆積によって河床が埋まったりするなど、新たな改修工事を行う必要性が生じてきた。また日照りが続き用水が不足したり、新田が開発されて新たな用水が必要となると、かんがい地『二ヶ領用水七堰絵図』川崎市市民ミュージアム所蔵

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