川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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14にあたる村々や農民の間で分水量をめぐって対立が起こることもしばしばであった。 こうした状態を改善し、二ヶ領用水を復興させたのが田中休愚(兵庫)であった。川崎宿の名主・田中家の養子となった休愚は、自身の見聞・体験に基づいて、地方役人の民政のあり方を厳しく批判した『民間省要』を著した。これが八代将軍・徳川吉宗の目に留まり、以後、荒川・多摩川・酒匂川の改修工事を担当したほか、大岡忠相配下の支配勘定格(勘定奉行に所属し、幕府の財政・領地の調査を司る。)にも登用された。 二ヶ領用水については、まず中野島の取入口を復活させたほか、主要部分だけで32kmにも及ぶ用水全体の大ざらいを行った。この時につくられたのが久地村の分量樋である。二ヶ領用水は久地で4本の堀に分かれる。休愚は、4本の堀のかんがい面積にあわせて樋の管の太さを調整し、水量を公平に分配することで村々の紛争や流末での水不足が起こらないようにした。この分量樋は昭和16年(1941)に近代的な円筒分水である二ヶ領用水久地円筒分水として整備され、平成10年(1998)、川崎市で初めて国の登録有形文化財(建造物)に指定された。 ただし、水をめぐる争いが完全になくなったわけではなかった。文政4年(1821)には著名な溝口の水騒動が起こっている。この年の夏に大渇水が起こり、水量の減った川下(流末)の川崎領の領民たちが、水量の適切な配分をしなかったとして溝口や久地の名主たちと対立し、溝口村の役宅の打ちこわしや江戸への強訴を行った。その訴状には「殊ニ追々致渇水、川崎領流末村々ハ呑水も無之体ニ相成候」とあり、農業用水だけではなく、生活用水としても利用されていたことが分かる。二ヶ領用水は、川崎一円の人びとにとってはまさしく「命の水」であった。3 二ヶ領用水のその後 時代が近代へと変わると、稲毛・川崎二ヶ領用水は、その役割を多様化させていく。まず明治初期には、横浜の外国人居留地の上水道の水源として利用されたほか、川崎町周辺の人びともこの用水堀の水をろ過して飲料水とした。また大正・昭和初期にかけて臨海部に工業地帯が形成されると、その工業用水を供給する役割をも担うようになった。 用水組合については、明治23年(1890)に水利組合条例が公布され、明治30年(1897)に二ヶ領用水を利用する村々を網羅した稲田村ほか12ヶ村普通水利組合(後に稲毛・川崎二ヶ領普通水利組合)と、流末の村々で構成される大師河原村ほか4ヵ村組合(後に川崎鶴見二ヶ領用水普通水利組合)が設立された(認可は翌年)。二つの水利組合は、日常的な維持管理と用水の水利調整を引続き行った。しかし年々肥大化する維持管理費の問題や、川崎市が二ヶ領用水沿いの町村を次々に編入していったことから、昭和16年(1941)に組合の財産・権利義務一切を川崎市に譲渡し、昭和19年(1944)に組合は解散することとなった。 二ヶ領用水は戦後の都市化・宅地化の過程で次第に耕地が減少したため、農業用水としての利用はほとんど失われてしまったが、現在では、都市の中で憩いや安らぎを与える水と緑の空間として、また川崎市の近代化・発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され親しまれている。第1編上水道第2章近代水道の幕開け

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