川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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15第2節 創設の機運1 産業都市・川崎のあけぼの 産業都市・川崎の原型が築かれたのは、今から約100年ほど前の日露戦争後のことである。東京と横浜に近接し、多摩川河口に接し、海に面した平地をもっており、水運が中心だった明治から大正にかけての時代に、それは特に産業面での優れた立地条件であった。その有利性を活かしながら、地域の発展を願う地元の地主たちが廉価な土地を提供し、積極的な工場誘致につとめた。その結果、多摩川下流域には、食品・電気・紡績等の企業が進出した。また大正初期には、多摩川と鶴見川に挟まれた地先海面の埋立が始まり、重化学系の工場群が進出した。かくして明治末期から大正期にかけて、京浜工業地帯の中核となる川崎の工場地帯が形成されていった。 川崎の工業都市としての発展性をいち早く予見し、地域社会の側から工業地帯の基盤整備に力を尽くしたのが、初代川崎市長をつとめた石井泰助である。石井は3度にわたり川崎町長をつとめる一方、「工業招致は100年の町是」と地主たちを説得して、地価の高騰を抑えながら廉価な土地を企業に提供した。明治39年(1906)の横浜精糖(後の明治製糖)の設立を皮切りとして、明治40年(1907)には東京電気(現在の東芝)、明治45年(1912)には富士瓦斯紡績などの誘致を成功させている。 同時に、工業地帯の発展を持続させるための都市インフラの整備にも力を注いだ。石井は、明治43年(1910)11月に二度目の町長に就任するが、その条件として三大事業(多摩川の治水対策、市街地の道路区画整備、近代水道の創設)の実現を掲げた。以後、彼は多摩川改修期成同盟会会長として国に治水工事の速成を働きかけたほか、町内の主要会社・工場に関係の深い街路の整備に当たった。なかでも彼が最も心血を注いだのが、町営水道事業であった。2 川崎の井戸と水屋 このように明治後期に、川崎は産業都市としての歩みを始めたが、近代水道は未整備のままであった。多摩川の澄んだ流れも、下流域では潮の影響を受けて海水が混じるために、飲料には適さなかった。また井戸を掘っても飲用に適した水は、ほとんど得られない状態であった。大師地区や田島地区には、それでもなんとか飲める程度の井戸があったようだが、川崎町の井戸は特に鉄分が多く、汲み上げてしばらく置くと、赤錆が出てくるという状態であった。『横浜貿易新報』(大正5年(1916)7月3日)川崎市市民ミュージアム所蔵第2節創設の機運

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