川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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16 人々は自家製の井戸のほかに、二ヶ領用水の水を販売する「水屋」から飲料水を確保していた。川崎の水屋では、石塚浅五郎(1821〜1874)、丑五郎(1867〜1919)、巳之助(1897〜1952)の3代が知られている。二ヶ領用水堀の水を汲み取り、樽に入れて天秤棒でかつぎ、後になると荷車に乗せて、川崎の東田町・旭町・砂子・堀之内付近に売り歩いた。初めは、用水もきれいで、用水堀の岸辺で汲んだ水をそのまま販売していたが、明治の中頃からは次第に濁りを増し、樽に砂や小石を入れて、ろ過しながら売っていた。水は、2斗(36L)ほどが入る水樽4本を車に積んで運び、料金は水量と距離によって決められ、2代目の丑次郎のときは1荷1銭5厘から2銭、その子巳之助のときは3銭(遠い地区は4銭)であった(川崎郷土研究会編『川崎研究−大川崎発展のあと−第1集』同、1986年)。3 最初の水道布設計画 川崎町が近代水道の創設に向けて動き出したのは、石井が町長に就任した翌年の明治44年(1911)1月である。町内の有力者を集めて水道設計に関する協議を開始し、2月に町会議員たちとともに多摩川中流の上丸子から久地までを水源調査している。5月には水源地候補地を上平間に変更して、水質の検査を県の衛生試験所に依頼している(『石井泰助日記』明治44年(1911))。この頃、石井が設計を依頼していたのは久保平吉という技師で、彼は当時東京麻布に久保工務所を構え、アメリカで広く使用されていた水道用木管を日本にも普及させて、日本で近代水道の整備促進を図ろうとしていた。ちょうど同じ頃、多摩川東岸の荏原郡を給水区域とする荏原水道組合(のちに玉川水道株式会社となる)の設計を手掛けていた。久保の設計によれば、工事費は16万円とのことであった。この後、しばらく水道布設に向けた動きは停滞する。 翌明治45年(1912)、川崎町は、東洋一の紡績工場とも呼ばれる富士瓦斯紡績の工場誘致に成功する。石井は誘致活動の先頭に立ち、約3か月間にわたって地元の地主たちを説得した。同じ頃、隣接地に鈴木商店(味の素)も川崎進出を計画していた。これまでにない規模の大工場出現が、水道完成を急がせるきっかけとなった。同年11月の町会で、水道部を新たに設けることが決まり、石井は町長を辞任してその部長に就任し、水道事務に専念することとなった。12月24日町会で水道布設の件が可決され、26日には町長と県会議員(田中亀之助)を同伴して郡役所に請願書を提出した(『石井泰助日記』明治45年(1912))。当時の計画案は、『横浜貿易新報』大正2年(1913)2月10日に、以下の通り報じられている。石井泰助肖像写真川崎市市民ミュージアム所蔵水屋第1編上水道第2章近代水道の幕開け

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