川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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17水源地…多摩川(御幸村上平間)御幸村の下平間・南河原を経て川崎町全域に給水給水人口25,000人(最大50,000人)1人1日当たり約83〜125L工事費28万円(町債) この案を神奈川県に提出したところ、川崎町の財政では水道布設には耐えられない、として取り下げることになってしまった。水道布設には巨額の公債を発行しなければならないが、当時の政府や神奈川県は極力公債を抑制して財政緊縮を図る路線だったので、認められなかったのである。4 第一次世界大戦、活況を呈した川崎 大正期に入ると、川崎の臨海部で埋立事業が始まり、ここに重化学系工場が進出するとともに、川崎町周辺の工業化・都市化に拍車がかかる。大正2年(1913)浅野総一郎らが鶴見川と多摩川に挟まれた海域約150万坪の埋立を開始し、同年に日本鋼管(大島)、大正6年(1917)には浅野造船所(潮田)等が進出、大量の職工たちを抱えることとなった。第一次世界大戦は日本に空前の好景気をもたらし、鉄鋼・造船・化学などの新しい産業分野が活況を呈するが、川崎・鶴見地区はその象徴的存在であった。 大正7年(1918)2月から4月にかけて『横浜貿易新報』に連載された「工業に栄ゆる川崎町」は、次のように川崎の盛況ぶりを伝えている。当時、川崎町周辺には、男女の職工併せて約11,500〜14,600人(警察に届け出た人数で、実際には約2万人とも言われる)がおり、全人口の約2/3が職工とその家族で、このほかに各工場の新設・拡張工事に従事する土工人夫が3,000人程度いる。そうした職工・土工たちの流入で、ここ数年間における川崎町民の生活は「震天動地の大変動を来たした」。最も深刻なのは住宅不足で、空き家はすぐに埋まり、家賃は高騰し、新築家屋の柱が1本立てばすぐに借手が押し合うという状況である。工場では社宅・寄宿舎などを用意する所もあるが、それでは全く収容できず、職工たちの中には周辺の神奈川・鶴見地域から通うものも多くあった。また職工やその家族を相手にした商売が繁盛し、燗酒屋・一膳飯屋・蕎麦屋等の料理飲食店、湯屋・理髪店・医師等に加え、待合・貸座敷・寄席・活動写真などの遊興施設が格段に増加した。 川崎町は、20世紀初頭までは戸数約1,000戸、人口5,000人程度で推移していたが、工場招致が始まった明治41年(1908)以降は増加の一途をたどり、大正2年(1913)には1,500戸・10,000人を突破し、大正8年(1919)には4,700戸・22,000人に達した。その一方で、現住人口に占める本籍人口の割合は、77.2%(明治39年(1906))から37.5%(大正8年(1919))へと半減した。人口増加の主因は他所からの流入人口で、その大半は先に見た工場労働者とその家族、それらを相手に商売する中小小売業者たちであった。第2節創設の機運

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