川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
56/810

185 深刻化する水問題 急激な人口増加は、水需要のひっ迫をもたらす。川崎に工場が進出し始めた当時、人々は、家庭用の水として自宅近くの井戸水もしくは、二ヶ領用水を使用していたが、いずれも良質とは言えず、水量も豊富ではなかった。大正4年(1915)の水質試験の結果、626井戸のうち、飲料に不適な井戸が566、残り60もこせば飲める程度であった。 町内の約半数の人々が、二ヶ領用水をろ過した飲料水を「水屋」から購入するなどして、かろうじて喉の渇きを抑えていた。『東京朝日新聞』大正9年(1920)2月2日号によると、川崎町内には171の井戸があったが、それだけでは不足し、水屋を利用していた人々が約1万4,000人(町民の半数弱)程度いた。当時は第一次世界大戦後の物価騰貴の影響を受けて、1荷6〜22銭だった水屋の料金が18〜27銭に大幅に値上がりするなどしたために、住民との間でトラブルになることもあったという。川崎町民が1か月当たり支払う水代は7円10銭余に相当し、全国で最高値であるとも言われていた。 かかる状態であったため、川崎の工場につとめる人々は、川崎に居を構えずに、東京・大森や鶴見・神奈川から通勤するような始末であった。 加えて工場では多量の工業用水を必要とするため付近に大規模な井戸を掘って、そこから大量の地下水を汲み上げたが、今度は周辺の住民の井戸の水量が減り飲料水・生活用水に事欠くような事態になりかねなかった。実際に大正7年(1918)には浅野造船所や日本鋼管の大規模な地下水汲み上げによって、周辺住民の井戸水が枯渇する問題が起こった。 このように、近代水道の創設は川崎に住む住民と進出企業の双方にとって喫緊の課題となっていった。神奈川県内務部が大正5年(1916)にまとめた『川崎方面ノ工業』では、当時の川崎周辺の水事情を次のように述べている。 川崎附近ノ水ハ其ノ性不純、健康上有害ニシテ飲料水ニ適セス。同地従来ノ住民ハ因習ノ久シキ此ノ如キノ悪水ヲ使用シテ意ニ介セサルモノノ如キモ、到底他地方移住民ノ堪ユル能ハサル所ニシテ又同地従来ノ住民ト雖モ之カ為メ自然ニ其ノ健康ヲ害スルコト少カラサルヘシ。此ヲ以テ目下川崎ニ於テハ六郷川ノ上流ヨリ灌漑兼飲料用ノ用水ヲ引キテ之ヲ濾過使用シツヽアリ。又田島村等ニハ遠地ヨリ飲料水ヲ運搬セル工場モアリ。而モ尚ホ到底清純ナル飲用水ヲ得ル能ハサルカ為メニ、近時盛ニ建設セラルヽ各工場ノ事務員等ハ川崎附近ニ居住スルヲ欲セスシテ東京・大森又ハ鶴見・神奈川等ヨリ通勤セルモノ甚タ多シ。サレハ同地方ニ於ケル水道ノ設置ハ最モ必要ノ事業ニシテ、其ノ完成ハ只ニ此等通勤事務員ヲ吸引スル等同地工場発展上寔ニ有益ナルノミナラス、実ニ亦一般人民ノ衛生上甚タ緊要ノコトニ属ス。而シテ此カ施設ハ公共団体ノ経営トナスコト最モ可ナルヘシト雖モ、町村ノ財政上其ノ実行困難ナルニ於テハ、民営会社ヲシテ之ヲ設立スル等、適当ノ方法ヲ講スルノ必要アリ こうした中、大正5年(1916)頃から再び川崎町で水道創設事業が動き始める。それをリードしたのは、やはり石井泰助であった。第1編上水道第2章近代水道の幕開け

元のページ  ../index.html#56

このブックを見る