川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
57/810

19第3節 創設1 計画の立案 石井泰助は、大正3年(1914)12月、3回目の町長となるとともに町財政の充実を図った。大正5年(1916)3月に町長を小林五助に譲った後は、水道の実現に専念する。石井は自ら水道委員長となり、町会議員全員を水道委員に任命し(うち9名を専任の委員)、水道創設に向けた体制をつくったほか、橘樹郡長や神奈川県知事の支持を取りつけた。 同年7月には和田忠治(後に臨時水道部長となる)を招いて設計を委託した。和田は、秋田市・青森市・横浜市・旅順等の水道創設・拡張工事にかかわった優秀な水道技師であった。和田は、水源を多摩川に求め、取水地点を中原村宮内地内とし、給水人口4万人、1日最大配水量12万立方尺(3,360㎥)を目標に、事業費55万円をもって着手する計画を立案した。問題の資金調達に関しては、石井泰助自らが市内の五大会社と交渉に当たり、無利子で合計25万円の融資を受けることに成功した(富士瓦斯紡績75,000円・東京電気75,000円・明治製糖40,000円・京浜電気鉄道40,000円・鈴木商店20,000円)。この間の経緯は『石井泰助日記』(大正6年(1917)5月16〜28日)に詳しい。また残り分については、政府系金融機関の日本勧業銀行からの低利融資で賄うことが出来た。 この時、石井は当初計画案には不満で、隣接する田島村・大師河原村(川崎区)や町田村(現在の鶴見区)といった鶴見川と多摩川に挟まれた臨海部一帯を対象とした給水人口6〜8万人程度の規模を構想していた。しかし建設資金の増加を不安視する町会や五大会社の反対等もあって、断念せざるを得なかった(『石井泰助日記』大正6年(1917)1月20日、5月24日・25日、6月6日〜9日、7月7日、8月26日)。ただし設計では、将来の給水量増加を見越して、導水管等は1日最大18万立方尺(5,040㎥)、計画給水人口6万人に対応できるよう、設計変更された。 こうして、水道布設計画は、大正6年(1917)8月27日の町会議決を経て、同年9月5日に事業認可申請、起債許可申請がなされ、大正8年(1919)2月19日に、ともに認められた。第3節創設

元のページ  ../index.html#57

このブックを見る