川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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546第3編経営第3章料金の変遷とお客さまサービスの拡充 大正13年(1924)7月の市制施行後は、相次ぐ隣接町村との合併による給水区域の拡大と急激な人口増加により、その都度大幅に需要水量が増大した。特に昭和12年(1937)7月の日中戦争勃発後は、軍需産業の台頭による工業生産の増大等により給水量は年々著しい伸びを示した。このような市勢の発展に伴う給水需要の急増は、第2期拡張事業、第3期拡張事業が完了したにもかかわらず、いずれも需要量は計画施設能力を上回る状況であった。例えば、昭和10年(1935)度の年間給水量は478万9,990㎥だったが、昭和16年(1941)度には1,821万8,638㎥と約3.8倍に急伸した。 このため、昭和15年(1940)度から第4期拡張事業に着手すると同時に、当面の給水需要に応じるため、暫定的取水並びに浄・配水設備拡張事業にも着手した。しかし、昭和16年(1941)12月に太平洋戦争が勃発し、軍需生産の増強等に伴って水需要は一段と増大し、昭和18年(1943)には、暫定的拡張事業の完了も充分な解決とは至らず、1日最大配水量は施設能力を超えて10万2,800㎥を記録した。一方、資材不足等で施設の拡充は出来ず、薬品等も節約を迫られ、浄・配水作業が困難となった。更に軍需産業優先で一般の使用は節水を要請された。このため配水維持に全力をあげると同時に、市民に強力な節水運動の協力を求めた。 昭和20年(1945)4月15日から16日の大空襲では全市断水となり、戦災を免れた地区には運搬給水をするほか、陸軍衛生隊にろ過機自動車の派遣を要請し、プール・貯水池の水を現地で浄化して給水した。終戦の8月には給水状態は極度に悪化し、同年度の給水量は1,203万㎥で、前年度の2分の1以下に減少していた。⑵ 戦後からの復興 戦後の川崎市は、戦争の被害が大きく、特に工業地帯は甚大な被害と軍需産業の消滅により生産額も著しく低下し、人口も激減した。その後、経済の安定とともに次第に工業地帯も整備復興し、昭和24年(1949)度の総人口は31万7,000人と戦前の水準となった。翌年6月には、朝鮮戦争勃発による特需で工業地帯は活況を呈し、給水量は2,430万㎥に増加し、昭和26年(1951)には2,700万㎥と過去最高を記録した。 昭和30年(1955)以降は高度経済成長期に入り、会社、工場の新設、生活様式の近代化、内陸部の宅地開発の進行等により、人口の急増、給水量の増加へと繋がっていった。第4期拡張事業が完了した翌年の昭和31年(1956)には、給水能力は1日19万5,000㎥となり、同年の夏には、1日最大配水量19万3,954㎥を記録した。更に、人口80万人が目前に迫った昭和38年(1963)度には、1日最大配水量はこれまでの最高38万7,200㎥を記録した。⑶ 伸び続ける給水量 昭和38年(1963)度に第5期拡張事業が完了し、昭和40年(1965)6月に第6期拡張工事の通水が始まった。給水能力は1日38万5,000㎥となったが水需要の増大は著しく、給水人口79万人に対して、1日最大配水量42万5,860㎥と新たな最高を記録した。また、年間給水量は9,900万㎥となり、翌年度には1億500万㎥を超えた。 昭和40年(1965)3月に着工、昭和46年(1971)3月に完了した第7期拡張事業は、人口100万人、給水人口92万人の市勢に対処するため1日20万㎥増量して給水能力を58万5,000㎥ と計画したが、水需要の勢いはこれを上回っていた。

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