川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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558第3編経営第3章料金の変遷とお客さまサービスの拡充6 市外給水⑴ 大師河原村等への給水 川崎町へ合併前の大師河原村及び御幸村へは、保健衛生の面からも要請を受けて、大正11年(1922)4月から町外給水を始めた。「川崎町外給水規程」によれば、供給水量は、1日につき大師河原村組合には200石(36㎥)、御幸村組合には150石(27㎥)の範囲内であった。大師河原村へは、川崎町久根崎字須ヶ原池端付近、御幸村へは御幸村明治製糖株式会社前及び東京電気株式会社裏、つまり境界付近に給水栓を設置して、各家庭へ運搬給水された。また、田島町へも同年6月から給水を行った。⑵ 東京都への応援給水 昭和15年(1940)夏の異常渇水時に多摩川六郷橋上に布設した口径200㎜の連絡管から3か月間にわたり1日約4,000㎥の応援給水を行った。戦後の昭和21年(1946)7月以降は、毎年夏季になるとこの連絡管によって、600㎥ないし700㎥の応援給水を行った。 昭和31年(1956)6月から34年(1959)3月までは、現在の多摩警察署前の1,000㎜配水本管から東京都の配水本管へ連絡し、1日5万㎥の応援給水を行った。同所から昭和40年(1965)と翌年の夏の渇水時には、それぞれ54万4,320㎥と45万7,128㎥を応援給水した。⑶ 横浜市への応援給水 太平洋戦争による被害で鶴見方面の配水管の末端の水圧が低下したため、矢向町、尻手町、京町、浅田町等において配水管の連絡を行い、昭和20年(1945)9月から23年(1948)9月まで最高1日5,000㎥に及ぶ応援給水を行った。また、配水管等の配水施設が整備されるまでの間として、昭和44年(1969)7月10日から9月20日まで約2か月間、高津区鷺沼から港北区元石川の配水本管へ72万2,629㎥、昭和47年(1972)度から53年(1978)度まで高津区有馬から港北区北山田町の配水本管へ130万4,660㎥、それぞれ分水した。 一般家庭への個別給水としては、鶴見区矢向、港北区日吉町、日吉本町、牛久保町、緑区元石川町、寺家町の境界付近の横浜市民へ給水した。⑷ 町田市への応援給水 第7期拡張事業の第2導水ずい道の工事に関連して、井戸水の枯渇補償の一環として給水装置を設置し生活用水の確保をした。ずい道通水後は町田市から給水されることになったが、配水管等の整備の間、昭和43年(1968)6月1日から12月31日まで61万4,211㎥を、現在の麻生区岡上から小田急線鶴川駅付近の配水本管へ分水した。⑸ 一般家庭への区域外給水 他都市との境界付近において、配水管の未整備により給水が困難となっている場合、配水管が布設されるまでの間、隣接する都市(横浜市・町田市・稲城市)の水道事業者からの依頼に基づき、相互に区域外給水を行っている。7 給水装置 配水管から分かれて、各家庭に水を配る水道管を給水管といい、給水管と止水栓、(水道メーターを含めた)メーターボックス、給水栓等の給水用具をまとめて「給水装置」と呼ぶ。

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