川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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589第2節 工業用水道3 給水状況⑴ 6社に給水(創設時) 川崎市の公営工業用水道は、昭和12年(1937)7月11日に一部通水を開始した。「工業用水道建設寄付に関する契約書」に基づく責任水量1日5万4,000㎥の内訳は、昭和肥料1日2万7,000㎥、日本鋼管1日1万8,000㎥、東京湾埋立1日9,000㎥であった。このうち東京湾埋立の水量はのちに4社(東京電気、東京電気無線、昭和電線電纜、日本鋳造)に譲渡され、昭和13年(1938)8月までの第2種配当水量は6社となった。⑵ 早期給水の要望(終戦前) 川崎市は、日中戦争を契機とする工業用水の需要の高まりに対処するため、1日8万1,000㎥から増量する第1期拡張事業を実施した。しかし、昭和20年(1945)8月の終戦とともに工事が中止されたため、創設時の施設能力8万1,000㎥と責任水量5万4,000㎥の差である余裕水量2万7,000㎥の範囲内で給水を行った。⑶ 戦後の復興、高度成長 終戦後の経済復興は昭和23年(1948)から軌道に乗りはじめ、昭和25年(1950)6月に勃発した朝鮮戦争による特需景気により、工業用水の需要は一段と増加傾向を示した。川崎市はこれに応じるため、1日10万㎥増量の第2期拡張事業を施行し、昭和30年(1955)3月に完了させた。更に、神武景気といわれた経済好況を反映して、我が国産業界は未曾有の設備投資を行った。このため神奈川県でも、戦争のため一時中断していた「川崎臨海工業地帯造成事業」を再開した。 川崎市では、埋立地に将来誘致される工場の工業用水需要に対処するため、昭和33年(1958)3月に第1次暫定拡張事業を完了させ、1日2万㎥を増量した。また、昭和34年(1959)7月には水源増強工事の完成で1日1万5,000㎥を増量し、施設能力は1日21万6,000㎥に達した。⑷ 施設能力の大幅増強 神奈川県による埋立事業と並行して第3期拡張事業(昭和34年(1959)度〜39年(1964)3月)が実施され、1日24万㎥が増量された。埋立地の新設工場へは昭和37年(1962)6月から順次給水を開始した。この間、昭和37年(1962)3月に下水処理水利用施設工事が完成して1日3万㎥の下水処理水も加わり、給水能力は1日48万6,000㎥となった。 更に、第4期拡張事業は昭和40年(1965)3月に大部分が完了し、同年6月の通水で給水能力は1日14万㎥増の1日62万6,000㎥、給水契約会社は76社となった。⑸ 給水先87社・110工場に達する 創設当初の契約会社は6社であったが、昭和41年(1966)度には85社となり、工場数は100工場を突破した。この増加傾向は高度経済成長期にあって更に続き、昭和44年(1969)度末には87社110工場となった。下水処理水における契約会社工場数は、昭和39年(1964)度に1社減少し、2社2工場となった。 年間配水量においても、昭和38年(1963)度に1億754万1,542㎥と1億㎥の大台を超えてから昭和45年(1970)度には1億9,946万4,800㎥と2億㎥台へあと一歩というところまで増加した。1日最大配水量も昭和42年(1967)度の52万5,700㎥を記録してから毎年更新し、昭

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