川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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604第3編経営第4章健全な財政基盤の確保第1節 上水道1 第1次世界大戦の影響(創設期) 大正7年(1918)度から開始した創設水道布設事業に要する費用は特別会計事業費とし、すべて起債に求めたが、その償還方法は、水道料金と町の税金を充てることとした。この事業を開始する前の大正3年(1914)には第1次世界大戦が勃発し、工事は大きな影響を受けることとなった。戦争の特需により、輸出の異常な伸長と海運業の活況をもたらし、川崎市の工業地帯もこの時期に基盤が確立された。一方、諸物価は加速度的に高騰し、工事費は2回の増額を余儀なくされた。しかし、その好景気も大正7年(1918)に戦後の反動恐慌が起き、地方中小銀行の破綻による取り付け騒ぎが相次ぎ、工事資金を預金していた七十四銀行も破綻休業した。このため支払停止となった預金相当額24万5,000円は、結果的に二重起債となってしまった。創設水道布設事業は、多額の工事費を必要としたため公債元利償還に追われ、給水開始の後も水道事業経営は多額の繰入金に頼らざるを得なかった。 不況下においても川崎市は、工業化が進むとともに人口も増加し、これに合わせて水道が急激に普及したことで、水道事業経営は次第に軌道に乗った。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では浄水施設、配水施設等に被害を受けたが、復旧工事費は2万円の起債で行った。 大正13年(1924)7月に隣接大師町・御幸村を合併したことに伴い、水道をこれらの地区に普及するため翌年12月から第1期拡張事業を施行した。この事業では、総工費の4分の1に当たる11万9,000円の国庫補助金が交付された。 更に、大正15年(1926)4月から川崎市と田島町による上水道組合が設置され、同年12月に田島地区の配水管布設工事が完了した。これによって給水人口がおよそ2万人増加して4万6,431人となり、当初、公債の元利償還額を下回っていた水道料金収入は、大正13年(1924)からようやく逆転し、昭和元年(1926)度には、19万8,751円に達し、元利償還額11万9,934円を上回った。2 昭和恐慌下で健全経営(昭和初期から終戦まで) 昭和2年(1927)の金融恐慌とこれに続く昭和恐慌期は、川崎市の産業にも打撃を与えたが、大工場が多かったこと、水道普及による給水人口の増加が急であったこと等で給水量は年々増加した。このため政府の緊縮財政の中であっても、昭和4年(1929)度から総工費82万円余をもって第2期拡張事業を施行し、早急に施設の拡張を行った。料金収入も毎年増加し、水道事業経営は順調に伸展し、昭和6年(1931)には、時勢を考慮して料金の値下げを行った。 昭和恐慌下にあっても給水人口が増加し水需要も伸び、満洲事変を契機とする軍需産業の勃興は、川崎市の重工業の発展を促進し、一層水需要を増大させた。このため昭和8年(1933)度から総工費359万円余をもって第3期拡張事業を施行した。 昭和8年(1933)8月の中原町をはじめとする北部隣接町村との合併や昭和12年(1937)7月の日中戦争の勃発は、人口の激増や軍需生産増強とともに水需要を増大させた。この状況

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