川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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656第3編経営第8章施設の有効利用に向けた取組鷺沼プールの歴史 鷺沼配水池の上部には、ジャブジャブ池のある鷺沼ふれあい広場、土橋小学校の校庭、川崎フロンターレによるフットサル場があり、四季を通じて子どもたちの笑い声が響き、大人にとっても憩いの場となっている。かつてここにあった鷺沼プールも同様に、市民に愛された施設であった。 鷺沼配水池のある土橋地区では、築造当時、土地区画整理事業が実施されていた。配水池の近くには、田園都市線鷺沼駅が新駅として設置される予定だったこともあり、土地区画整理組合と東京急行電鉄株式会社から、「無人施設(配水池)の代替として集人施設を併設すること」との要望を受けた。 そのため川崎市は、配水池の上部に市民の憩いの場として庭園式プールを設置することとし、昭和42年(1967)に完成した。ここに鷺沼プールの誕生をみる。 誕生した鷺沼プールは、鷺沼駅から徒歩3分という交通至便の場所に位置し、敷地総面積4万㎡の中に幼児用から大人用まで5面のプールを有し、収容能力8,000人で、当時、市内で最大規模のマンモスプールであった。 ちなみに、鷺沼プールの築造が予定されていた場所一帯は、樹木が生い茂る丘で、プール開場の数年前まで野うさぎが自由に走り回っていたとの記録も残されている。今では考えられない、のどかな場所であったことが想像される。 鷺沼プールは、昭和43年(1968)7月1日から営業をスタートした。当日の開門は午前9時。まだ梅雨が明けないうっとおしい空模様の中、約100人が開門を今か今かと待ちながら列をなしていた。一番乗りは、平間中学校1年生の生徒。早朝5時に起床し、自宅からプールまで約15㎞の道のりを自転車でかけつけたそうである。プール正面ゲート前で、水道局長(当時)からこの生徒に金色に輝くハサミが渡され、全員拍手の中、紅白のテープが切られ、入場ゲートが開かれた。 当日の気温は25度、水温は24度で、開場してまもなく、雨が降り出した。このため、30分で退場する人や、唇を紫色にして歯をがくがくさせて震えている児童も多数いた。また、退場口で友達が先に帰ったのを知らず、待っていたため、精算の際、超過料金を取られ、帰りの電車賃がなくなると泣き出す児童もいた。今となっては、良い思い出となっているかもしれない。こうしてスタートした鷺沼プールは、以降、30年以上にわたり営業を続け、多くの人々に親しまれた。 プール開場当初は入場者も多く、鷺沼駅前の夏の風物詩として活況を呈したものの、その後レジャーの多様化等による入場者の減少、施設の老朽化により、鷺沼プールは惜しまれつつも平成14年に営業を終了した(昭和43年(1968)の開場から平成14年(2002)の営業終了までの総入場者数は約1,050万人、ちなみに、入場者数が最高だったのは、昭和47年(1972)であり、49万7,228人であった)。 鷺沼プールが誕生してから半世紀以上のときが流れたが、鷺沼プールが果たしていた市民の憩いの場としての役割は、形を変えて鷺沼ふれあい広場に引き継がれている川崎市上下水道局 下水道部下水道管理課 担当課長 川原 良太コラム

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