川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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38第2節 配水管増設工事1 背景川崎市田島町上水道組合の設立 田島町は、大師地区と同様に地下水の水質が悪く、飲料に適する井戸水はほとんど皆無の状態で、同町への水道布設は急を要していた。川崎市と田島町は、江戸時代から用水組合、水利組合等の運営の一体化等で密接な関係にあったが、横浜市に近く、埋立地の造成等により工業地として将来性があることから、田島町は川崎市との合併に踏み切れない事情があった。この合併問題については、大正6年(1917)川崎町の上下水道布設計画の時にもあったが機は熟さず、大正13年(1924)市制施行の折にも田島町会議員間の意見も一致せず、大正14年(1925)2月4日に田島町会議員並びに各区長による合併に関する協議会においても、時期尚早という結論から一時中断となっている。 合併問題は進展しないものの上水道については、市制施行とともに合併した大師・御幸地区に水道布設計画が立案されると、田島町住民間にも水道布設の要望が急速に高まり、やがて田島町会議員による上水道調査委員会が設置された。大正14年(1925)6月、川崎市水道委員が多摩川の伏流水を水源とする大水道計画を検討するに当たり、信越地方各都市の地下水利用状況を視察することとなり、この視察に田島町上水道調査委員が同行し、これを契機として両者間に上水道組合設立の運動が起こることとなった。 大正14年(1925)9月7日に田島町上水道調査委員が再度調査を行い、上水道組合設立がいよいよ具体化した。川崎市及び田島町全員協議会はそれぞれ組合設立を決定し、同年9月9日に行われた川崎市長、田島町長、両参事会員及び水道委員による組合設立に関する合同会議において、意見の一致をみて、組合規約設定のため委員会を設けることとした。上水道組合設置理由書 川崎市ハ、大正十年七月上水道開始以来、給水ノ漸次市内ニ普及ト共ニ、伝染病発生ハ逐年減少シ、公衆衛生及個人保健衛生ニ上水道ノ緊要ナル事ハ言ヲ俟タズ、然ルニ田島町ハ、同市ト最モ接近シ、就中同町渡田・中島・大島等ノ大字ハ川崎市ト其区域密接シ、殆ンド同市ト判別セザル程度ノ現況ニアルモ、未ダ上水道ノ設備ナク、殊ニ同方面ノ井水飲料ニ適スルモノ皆無ノ状態ニシテ、一朝不幸ニシテ伝染病流行ニ際会センカ、両市町ノ蒙ル災厄ハ蓋シ甚大ニシテ、実ニ憂慮ニ堪エザルナリ、尚又同町民ノ保健衛生ニ喫緊ノ必要ナルヲ認メ、玆ニソノ事務ノ一部ヲ共同スル処理ヲスル為メ、上水道組合ヲ設置セントスル所以ナリ 川崎市議会は、同年9月17日にこの上水道組合設置のため上水道調査臨時委員規程の制定と委員15名を決定した。双方の組合設立委員による規約草案は、それぞれ、同年9月26日に本会議において可決され、川崎市田島町上水道組合を設置した。 この上水道組合は大正14年(1925)12月10日に設置許可を得たが、当時、市と町村による組合水道の設置例がなく、内務省当局から改めて同地域を給水区域とする水道布設認可を申請するよう指示があった。そのため、川崎市は新たに田島町を含めた給水区域とする水道布設の認可を申請した。第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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