川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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49 昭和23年(1948)末の給水人口20万人に対する1日最大配水量5万㎥には、普通圧鋳鉄管で支障はなかった。しかし、それ以後の配水量の増大、すなわち昭和38年(1963)末の給水人口28万5,000人に対する1日最大配水量9万㎥の配水が、毎秒1.435㎥(消火用水を含む)となり、その最大静水頭が126mとなる点を指摘された。 この認可条件に伴い、昭和9年(1934)2月6日、配水本管は厚さ9㎜の電気溶接鋼管を採用すること及び本管末端には減圧弁を取り付けることとした。また、支管も口径500㎜から口径900㎜までは鋼管とし、口径400㎜以下は高級鋳鉄管とした。なお、価格によっては150㎜以下に鋼管を採用する等の計画変更を行い、これら配水管における水圧等の計算書を添付し、内務大臣あてに報告した。⑵ 伏流水取水の許可 本拡張事業は、水源を二ヶ領用水の分水に求めたが、同用水の本川である多摩川の伏流水を取水することとしたため、取水設備については河川管理者の許可が必要であった。そのため、昭和7年(1932)9月に神奈川県知事及び東京府知事に対して、多摩川河水引用工作物設置許可を申請した。 当時、多摩川の左岸東京側には、公営水道として荒玉水道町村組合(砧下系)及び民営の玉川水道株式会社等があり、いずれも、二ヶ領用水取水口下流にその取水地点を有していた。東京市は、昭和7年(1932)10月1日から隣接する5郡、82か町村を併合する等、著しい市域拡張を行ったため、これら地域の公営水道も同時に東京市水道に併合統轄された。また、東京市は将来の大東京実現を予想して、小河内貯水池の築造等の第2水道拡張事業を計画していた。 このような事情から、川崎市が、本来二ヶ領用水が有する水利権の範囲内で、一部用途変更として企図したこの取水も、当初東京側は、下流の既存取水権に影響を及ぼすという理由から強い難色を示した。このため、容易に了解を得られず交渉は難航したが、その後、神奈川県の協力を得て、また内務省当局の斡旋もあり、昭和9年(1934)1月にようやく東京側の了解を得ることとなった。同年1月31日に神奈川県知事の許可を得て、翌2月1日に東京府知事の許可を得るに至った。4 工事施行の経過昭和9年(1934)2月1日工事の開始4月24日水源取水ポンプ場において起工式を挙行昭和10年(1935)3月末水源取水ポンプ場用地、導・配水管路用地及び浄水場用地の買収完了昭和13年(1938)5月通水式を挙行昭和14年(1939)3月31日工事が完成 工期は、当初予定した昭和7年(1932)度内に事業認可が得られず、1か年繰り延べ、昭和8年(1933)度から11年(1936)度に至る4か年継続事業として行うこととした。しかし、事業開始がほとんど年度末であったことと、浄水場用地の買収交渉が難航したこと及び配水管布設工事の一部が遅延する等の理由から、工期は昭和14年(1939)3月31日まで延長を余儀第4節第3期拡張事業

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