川崎市水道百年史 川崎市上下水道局
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54昭和13年(1938)10月1日稲田町、向丘村、宮前村、生田村昭和14年(1939)4月1日柿生村、岡上村 これらの合併により市域は、33.02㎢から128.75㎢と4倍近くにまで拡大した。⑵ 中原町営水道の併合 中原町は、昭和の初めまでは飲み水をほとんど二ヶ領用水に頼っていた。井戸水は耕地の汚水や消毒薬が混入する等、不衛生なだけでなく、夏には伝染病が流行し、町の発展が妨げられるようになっていた。このような状況を改善するため、昭和4年(1929)に町営水道を建設し、1日最大4,600㎥の配水能力を有していた。 水源は、小杉の北方堂下地内の多摩川下段丘に汲水井を掘り、その底部に集水管を埋設し、砂礫層下の伏流水に求めた。集水した原水は、浄水池でろ過し、配水塔に揚水し自然流下で配水していた。この施設は、昭和8年(1933)8月の合併とともに川崎市に引き継がれ、第3期拡張事業の完了までそのまま使用されていた。⑶ 溝ノ口組合水道の買収 高津村の溝口付近は、江戸時代から二ヶ領用水寄りに共用井戸を掘り、これを五つの井戸に分水して使用していた。しかし、干ばつが続くと水量が著しく減少したので需要に追いつかなかった。昭和3年(1928)4月に高津に町制が敷かれ、翌年春には、水道建設が発議された。昭和6年(1931)2月、溝ノ口組合水道(簡易水道)が組織され、揚水井から地下水をポンプで汲みあげ、120戸に給水した。 昭和12年(1937)4月には念願であった川崎市との合併を果たし、川崎市は同時に簡易水道を買収し、一時そのまま経営していた。⑷ 日吉村の分割合併 日吉村は、矢上川の流れを境にして東部と西部に分かれていた。東部は、江戸時代から二ヶ領用水組合により川崎市と結ばれていたが、西部は丘陵地帯で地理的にも疎遠な関係であった。このような日吉村に対して、川崎市と横浜市が合併運動にしのぎを削っていた。川崎・横浜両市長は、矢上川を境に分割合併することに意見の一致をみたが、村内は依然として大きく動揺していた。  昭和9年(1934)4月に慶応大学が開校し、横浜市から給水が開始されたが、地域には水道布設が行われなかった。これを契機にして、合併問題を早急に解決すべきであるという情勢を受けて、村議会では全村が横浜合併という緊急議決をしたが、解決には至らなかった。その後、県当局が自治振興上から円満に合併するよう指導にのりだし、ようやく終止符を打ち、矢上川を境にして、昭和12年(1937)4月1日から川崎市、横浜市双方にそれぞれ合併された。 この合併により給水区域が急速に拡大し、人口も昭和12年(1937)末の時点で19万4,672人を数え、第3期拡張事業で推定した昭和23年(1948)末の給水人口20万人に達しようとし中原町営水道配水塔第1編上水道第3章水道の拡張時代の到来

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