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大師河原の漁撈具

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2004年12月8日

大師河原の漁撈具 海苔加工用具

海苔加工用具

大師河原の漁撈具 131種457点

年代

近代

所有者

川崎市

所在地

中原区等々力1-2(市民ミュージアム)

指定

市重要郷土資料 平成11年2月23日指定

解説

 川崎市の東南端、多摩川河口に位置し、東京湾に面した川崎地先の海岸部は、沖合2kmほどまで干潟を含む遠浅の海が広がり、魚類も豊富であった。
 この川崎地先に所在する大師河原では、江戸時代より磯付百姓村として農業によって糧を得ることを基本とし、地先の海では網を使わないごく小規模な漁、肥料及び自家用の海藻、小魚、貝類を捕ることのみが許されていた。しかし、大師河原は川崎宿や江戸という大消費地に隣接しているため、海産物を捕って仲買に売り渡すなどの、いわゆる海面稼ぎが盛んに行われていた。池上家文書の「池上新田村鑑」(『川崎市資料叢書第五巻 池上家文書(一)』)の宝暦12年(1762)の項には、農業の合間に貝類や小魚を捕って川崎宿や江戸へ売って生計の足しとしている暮しぶりが記載されている。
 また、沿岸部では17世紀中頃から製塩業が行われていたことが、『江戸名所図会』などによって知ることができる。大師河原の塩は、抱塩といって苦汁を多く含んだ赤色の塩で、良質なものではなかった。しかし、塩は天候によって左右される不安定な産物であったため、江戸幕府にとって大師河原の塩は下総行徳(現;千葉県市川市)に次いで重要視されていた。
 江戸時代を通じて重要な産業であった大師河原の製塩業は、明治38年(1905)塩の専売法が施行され、明治43年(1910)には個人での製塩が禁止となったため、輸入塩の再生業をはじめた1軒を除いて廃業し、製塩業を止めた家のほとんどは海苔養殖に転業した。
 日本における海苔養殖は、品川・大森沿岸をもって嚆矢とする。当地は、18世紀初頭にはすでに浅草海苔の一大生産地として全国に名を馳せていたが、大師河原では明治4年(1871)より海苔養殖が行われるようになった。
 当初は、海面2万坪で開始されたが、徐々に生産力を増し、明治38年度にはヒビ建場の坪数166,750坪、明治42年度には181,332坪で生産枚数2千万枚、年間総収入12~15万円と、神奈川県最大の規模を誇っていた。(岡村金太郎『浅草海苔』1909年)。
 大師河原の水産業としては、海苔養殖が専らであったが、ボサアミ漁のほか、鰻や貝を専門に行っている漁師もいた。『大師河原誌稿』(大正2年刊)には蜊(アサリ)、蛤、鰻、サルボー(貝)などの漁獲物が記載されている。
 海苔養殖業の成功発展とともに、川崎における漁業権の整備と漁民の組織化が進み、海苔養殖と蜊(アサリ)、蛤などの貝漁を中心とした川崎の漁業が確立した。さらに昭和40年代にはいると海苔養殖技術の機械化が進み、海苔の生産性が向上し、海苔の生産高、収入とも伸びた。しかし昭和44年に川崎漁業協同組合に扇島埋立計画が提案された結果、大師河原の海苔養殖業者と漁師は漁業権の放棄という選択をし、昭和48年組合は解散となり、ここに大師河原の漁業は終焉を迎えることになった。
 大師河原の漁業は、昭和48年に終焉を迎えたわけであるが、当時使用されていた製塩用具、海苔養殖用具、漁具、船関係用具、生活用具、その他の民俗資料131種457点が収集されている。これらの資料は、川崎沿岸部の漁撈習俗を知るうえで大変貴重な資料である。特に、わずか100年の海苔養殖の歴史の中にも、生産技術の進歩や漁場の変化による用具の変遷、組織や慣習の移り変わりを読み取ることが可能であり、東京湾の海苔養殖業の研究に対しても貴重なデータを提供し得るものと言える。

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