後北条氏の虎の印判状 甲子三月二十三日付
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後北条氏の虎の印判状 1通
年代
永禄7年(1564)
法量
縦30.7cm 横40.5cm
所有者
川崎市
指定
市重要歴史記念物 昭和50年12月26日指定
解説
高橋某(実名は不明)は、後北条氏から、丸子村を知行として与えられていた。ところが、永禄7年になると、第4代小田原城主の北条氏政は、高橋某から丸子村を召し上げ、その代替地として武蔵足立郡内の嶋根村を与えることになった。
この印判状は、右の事情についての、替地の宛行状である。日付の下に記している遠山左衛門尉は、奉者として氏政の命をうけ、印判状を発行した担当者であり、実名を康光といった。康光は、天文22年(1553)から永禄11年(1568)にかけて奉者を務めている。
料紙の形状は折紙であるが、その懸紙(文書の上にかけて包む紙)も現存している。
さて、氏政が高橋某から丸子村を召し上げた理由は、千葉殿の老母に堪忍分(生活費、生涯の扶養料といった意味)として与えるためであった。この千葉殿については、下総佐倉城主の千葉胤富とみてよい。老母、すなわち胤富の母といれる人物については、胤富の弟親胤(胤富は親胤の庶兄、黒田基樹説)に嫁した北条氏康の娘とみられる。親胤は弘治3年(1557)8月7日に死亡したため、その遺跡を胤富が継いでいるから、胤富にとって氏康の娘は養母となり、母といわれているわけである。
氏政は、丸子村の高橋某の知行地をすべて召し上げたのではなかった。最初の一ツ書きに、「七貫文 丸子之内手作分、同屋敷」と記しているように、丸子村の中で、高橋自身が耕作していた7貫文分の地と、同人の屋敷地は召し上げず、高橋の手許に残している。次の一ツ書きに「一ケ所 足立之内嶋根之村」とあるのは、召し上げた丸子村知行地の代替地である。この2つの一ツ書きは、高橋某の新たな知行地を示しており、したがって書き出しは「被下置知行方」と記しているのである。
この文書によって、丸子村には高橋某という侍の屋敷があり、彼はそこに住んでいて、しかも自身の耕作地を持っていたことが知られる。ただ高橋某の詳細は明らかでない。また、丸子村については、その当時、ともに多摩川の南岸に存在した上丸子・下丸子のいずれかであるが、次の理由から上丸子であったとみることができる。
その1つは、千葉胤富の養母となった北条氏康の娘に堪忍分として与えられた丸子村の地は、丁亥(天正15年)8月18日付け後北条氏の虎の印判状にみえる上丸子郷42貫文余りの地と同一とみられるからである。また、江戸衆であった千葉殿(胤富)が、上丸子で20貫文の知行地を与えられていたことも関係していよう(『小田原衆所領役帳』)。すなわち、その堪忍分には、この20貫文の地も含まれていたであろうことが推測されるのである。
原文
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