後北条氏の虎の印判状天正十五年九月二十日付
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後北条氏の虎の印判状 1通
年代
天正15年(1587)
法量
縦31.2cm 横41.2cm
所有者
川崎市
指定
市重要歴史記念物 昭和50年12月26日指定
解説
この印判状は、第5代小田原城主の北条氏直が、家臣である高橋某の所領を旧来のとおり再確認した、いわゆる安堵状である。日付の下に記す山角孫十郎は、奉者として氏直の命をうけ、印判状を発行した担当者であるが、その実名は現在のところ明らかでない。孫十郎は通称(仮名ともいう)であるが、彼は天正15年から同17年にかけて奉者を務めている。
料紙の形状は折紙であるが、この文書の懸紙も現存している。
本文中に、「去甲子如先御證文」とあるのは、甲子(永禄7年)3月23日付け虎の印判状を指すことは明らかである。それは、所領の記載が全く同じであることからも分かる。したがって、この印判状は、北条氏政が高橋某に丸子村の手作り分と屋敷地及び足立郡嶋根村を与えた宛行状を証拠として、氏政の子氏直が高橋某にその所領を安堵したものということができる。
氏直が高橋某に安堵の印判状を与えた理由は、2つ考えられる。1つは、後北条氏において、氏政から氏直への家督譲与が行われたのは天正8年8月19日のことであるが、新当主氏直は同15年になって高橋某の所領を再確認したとする見解である。
いま1つは、丁亥(天正15年)8月18日付け虎の印判状と関連させて、上丸子郷42貫566文の地の直轄領編入に伴い、そこに介在した高橋某の所領を再確認したものとする見解である。両者のうち、時間的なかかわりからいっても、また、関連文書の存在からみても、前者よりも後者の方が正鵠を得ていよう。
なお、「後北条氏」のいわれについて付記しておこう。相模の小田原城を本拠とした戦国大名北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲は俗称)を始祖としている。この宗瑞は「北条」を称したことはなく、その子氏綱のときに、伊勢から北条に改められた。その改姓の時期は、大永3年(1523)の6月から9月までの間とみてよい。氏綱は、相模守護であった扇谷上杉朝興と、相模支配をめぐり激しく抗争するなかで、朝興の「他国の凶徒」論理に対抗して、氏を北条と改めているのである。この北条は、鎌倉幕府の執権北条氏につながるものであることは確かといえる。したがって、一般に、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の5代を、鎌倉幕府の北条氏と区別するために、「後北条氏」と呼んでいるのである。
原文
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