豊臣秀吉の禁制
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豊臣秀吉の禁制 1通
年代
天正18(1590)年
法量
- 縦45.5cm
- 横64.4cm
所有者
個人(麻生区)
指定
市重要歴史記念物
昭和63(1988)年2月19日指定
解説
「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事柄を広く知らせるために作成した文書で、別に禁札、制札とも呼ばれている。また、「禁制」は文書として記してあるだけではなく、木札に墨書して人目につきやすいところに掲げ、のちには駒形の木板に書いて提示される高札などによって示されるようにもなった。
川崎市域に関係する豊臣秀吉の禁制は、いずれも「天正18(1590)年4月」付で4点が明らかにされている。このうち、3点は、武蔵国橘樹郡小田村(現在川崎区)、武蔵国稲毛郷河崎六か村(現在川崎区)、武蔵国稲毛郡作延郷(現在高津区)・長尾村(現在多摩区)・平土橋村(現在宮前区)宛に出されたものである。これらは、いずれも『武州文書』や『新編武蔵風土記稿』に記載されており、江戸時代において小田村は小田村名主栄助・陶山氏、河崎六か村は堀之内村の山王社神主鈴木主馬、作延郷・長尾村・平土橋村は長尾村の百姓六郎兵衛・井田氏にそれぞれ所蔵されていたとある。なお、このなかで長尾村の豊臣秀吉の禁制は、同文の木札が、現在、東京都世田谷区立郷土資料館に寄託されている。したがって、木札を除けば、この3点の禁制は、江戸時代に写されたものであり、現在、実物は存在していないのである。
これにたいして、本禁制は、秀吉の朱印、紙質、筆跡からみて、郷村に下付された実物の文書である。3箇条の文言は次のようにある。
一 軍勢甲乙人等、濫妨狼籍の事
一 放火の事
一 地下人百姓に対し非分の儀申し懸くるの事
右の条々、堅く停止せしめ訖わんぬ。若し違犯の輩においては、速かに厳科に処せらるべきものなり
この内容は、さきの3点の禁制とほぼ同様であるが、秀吉は配下の軍勢に対して「兵士や随伴する者たちが、郷村の住民に乱暴や狼籍を働くこと、火をつけて火事を起こすこと、一般の庶民や百姓に無理不当を言うことを堅く禁じる。もしも、これに違反する者がいたら、直ちに厳罰にする」と記入してある。禁制には秀吉の署名はなく朱印が捺してある。しかし、この朱印の印文は秀吉の他の例と同様に明らかでない。禁制の対象となっている地域は、武蔵国都筑郡麻生郷に含まれていた、現在の麻生区の王禅寺・古沢・片平・万福寺、横浜市青葉区の黒金・石川・荏田、同市都筑区の大棚、東京都町田市の三輪の9ヶ所の旧郷・村である。これには、中世的な村落の結合を示す「郷」、近世的村落の「村」の呼称が並んで記されており興味深い。
禁制は支配者が寺社や庶民に対し、禁制する事柄を周知させるために作成したものである。秀吉は小田原北条氏攻略の軍勢の行動を規制し、郷や村の人々に対し宣撫工作を行うとしたものであろう。禁制を所蔵している小島氏は、系図や記録によると先祖の小島玄蕃貞治が、室町時代中期に麻生に土着し、その弟の佐渡守高治は常安寺の開基となって地域の開発に努めている。この在地土豪的な小島氏に禁制を与えることによって、その趣旨を徹底させていこうとしたものと思われる。
原文
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