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幸区の横顔

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2013年4月1日

幸区の地勢

 幸区は川崎市南東部に位置し、川崎区・中原区、横浜市の鶴見区・港北区、東京都の大田区と隣接しています。

 区域内の交通としては、幹線道路の国道1号線(第二京浜)が区域の東側を南北に縦断し、国道409号線(府中街道)が北側を東西に横切っています。鉄道はJR南武線と横須賀線が西側を南北に縦断しており、JR川崎、尻手、鹿島田、新川崎の4駅が立地しています。

 地形は、区域北西部に位置する加瀬山(標高約35m)とその周辺を除き高低差はあまりなく、平坦な土地が広がっています。区域の外縁部は多摩川、鶴見川、矢上川、の3つの河川に囲われています。区域内を流れていた二ヶ領用水の水路網の多くは、現在では暗渠化されていますが、JR南武線沿いを北端から南に向かう約1kmが水辺空間として残されています。これらの河川や水路は、緑豊かな加瀬山とあわせて区域内に残された貴重な自然環境となっています。

まちの変遷

 幸区の区域は、縄文時代前期には加瀬山付近を除き海面下にありました。その後海面の後退により陸地となりました。縄文・弥生時代から人々が暮らしていたことを示す土器や骨器などが南加瀬貝塚から発掘されています。

 古墳時代には、加瀬山周辺に古墳が築造され、夢見ヶ崎(加瀬台)古墳群と呼ばれています。かつて北加瀬にあった前方後円墳の白山古墳(4世紀後半)からは、三角縁神獣鏡をはじめ多くの鉄製品や装身具が出土しています。

 平安時代末期には、加瀬山に経塚(熊野神社脇の浅間塚)が築かれ、12世紀の常滑焼の壷と鏡二面(湖州鏡と和鏡)が出土し、白山古墳の後円部下側からは、12世紀後半の渥美焼の「秋草文壷」が出土しています。貞応3(1224)年、後白河院の第六皇女・宣陽門院の所領荘園目録(島田文書)に「賀勢荘」という記述があり、当地に荘園が成立していたことが確認できることから、出土品と荘司等の開発領主との関連が推測されます。

 鎌倉時代になると、国衙領であった「鹿島田郷」が、弘安9(1286)年に幕府から鶴岡八幡宮寺に寄進され、正応元(1288)年には再び国衙領となったことが、金沢文庫所蔵の文書(将軍家寄進状)に記されています。室町時代に、太田道灌(1432~1486年)が加瀬山に城を築こうとした伝説(新編武蔵風土記稿)があり、戦国時代になると、区域は後北条氏の領国となりました。

 江戸時代になると、区域は幕府の直轄領となりましたが、18世紀には塚越村、鹿島田村等の8か村が増上寺領となりました。江戸時代は、二ヶ領用水の開削により農業生産力が向上するとともに、今も残る寺社等の文化遺産が形成された時代でした。

 明治中期までは米や梅を生産する農村地帯でしたが、鉄道の整備や国道1号線(第二京浜)の開通、工業用水水源地の設置等、工場立地の条件が整い、大規模工場の進出が始まりました。同時に関連する中小工場の集積、工場の勤労者向け住宅の建設が進み、工場と住宅が併存する市街地が形成され始めました。明治後期になると工業都市としての姿が見られるようになってきました。しかし、区域が多摩川、鶴見川、矢上川、にはさまれているため、毎年のように河川が氾濫し洪水にみまわれていました。大正3(1914)年には住民が大挙して県庁に堤防建設の陳情を行い(アミガサ事件)、大正8(1919)年に多摩川初の人工堤防が築堤され水害の危険性は小さくなりました。

 昭和(1925年)に入ると南部鉄道(現・JR南武線)や新鶴見操車場が整備され、工場の操業が次々と開始されるなど、区域の都市化・工業化は一層進みました。第2次世界大戦時には空襲の被害を受けましたが、戦災から立ち直り高度成長期を迎えると、工場と住宅の集積はさらに進み、工場と住宅が高密度に併存する市街地が形成されました。

 近年は産業構造の変化に伴い工場移転が進み、跡地に大規模な集合住宅などが建設されています。また、研究開発部門などの都市型産業の立地が進み、平成12(2000)年には慶應義塾大学の研究施設K(ケイスクエア)タウンキャンパス、平成15(2005)年にはかわさき新産業創造センター(KBIC)が開設されました。また、平成16(2004)年にはミューザ川崎シンフォニーホール、平成18(2006)年にはラゾーナ川崎プラザがオープンし、新たな都市の表情を見せつつあります。

行政区の変遷

 現在の幸区の区域は、明治22(1889)年に市制・町村制が施行された時、御幸村、日吉村、住吉村に属していました。明治45(1912)年の府県境界変更では、東京府荏原郡矢口村(現在の東京都大田区)にあった古市場が、御幸村に編入されました。大正13(1924)年に、御幸村は川崎町、大師町と合併して川崎市になりました。その後、昭和12(1937)年に日吉村の一部が川崎市に編入されたことで、現在の区域全域が川崎市になりました。そして、昭和47(1972)年に川崎市が政令指定都市となったことから区制が施行され、幸区が誕生しました。

区名の由来

 明治17年(1884)に明治天皇が小向梅林に行幸(御幸)したことにちなむ「御幸村」の村名と、「幸多い」地域という願いから「幸区」と名付けられました。

幸区のあゆみについては、幸区の年表をご覧ください。

幸区シンボルマーク

 幸区の頭文字「S」と無限大のマークをイメージしています。二つの輪は、区民の深いつながりと伸びゆく情報発信を表し、地域の温かい人情と未来都市への無限の可能性にあふれた区(まち)を象徴しています。

 平成5年1月1日制定

幸区シンボルマーク

幸区シンボルマーク

区の木「ハナミズキ」、区の花「ヤマブキ」

 平成24年(2012)に幸区誕生40周年を迎えたことを記念して、「区の木・区の花」を制定しました。

 幸区民を対象に行った公募結果を基に、「区の木・区の花選考区民委員会」にて選考を行い、決定しました。

幸区の木 ハナミズキ
幸区の花 ヤマブキ

区の人口と面積

人口:幸区の世帯数・人口はこちらを御覧ください。
面積:10.09平方キロメートル

区長

幸区長 上野 葉子〈うえの ようこ〉 (平成25年4月1日就任)

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  • 区の年表

    区のあゆみについては、区の年表をご覧ください。

  • 区の人口・世帯ページ

    区の統計(人口・世帯)について、詳しくは、区の人口・世帯ページをご覧ください。

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川崎市 幸区役所まちづくり推進部企画課

〒212-8570 川崎市幸区戸手本町1丁目11番地1

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