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さいわいくまめちしき

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川崎駅西口の再開発(さいかいはつ)と音楽のまちかわさき ~まちの移(うつ)り変わり~

再開発(さいかいはつ)って何?どうしてするの?

 昔に通った道を久(ひさ)しぶりに訪(おとず)れたとき、「前に来た時とちょっと様子が違(ちが)うな…。そうか、ここに何軒(なんけん)かあった古いお家やお店が無くなって大きなスーパーとアパートになったんだ。別の場所みたいだなぁ」と思ったことはありませんか?建物が一つ変わっただけでも、感じが変わって見えます。便利になっていればまた来てみたいと思うことでしょう。

 そこがたくさんの人が乗り降(お)りする駅の近くで、会社があり、働く人がたくさん来るお店が集まる場所だったら、これからお店を持つ人も、今までお店を持っていた人もそこにお店を開きたいと思うし、住んでみたいと思うのではないでしょうか。こうしたきっかけで、もともとの古いビルや家々を新しく作り変えてにぎわうまちにしたり、住みやすいまちにしていくことを再開発(さいかいはつ)といいます。

では、再開発(さいかいはつ)で変化を遂(と)げた川崎駅西口を見てみましょう。

昭和59年頃の川崎駅西口の写真

▲昭和59年ごろの川崎駅西口の写真

最近の川崎駅西口の写真

▲最近の川崎駅西口の写真

 今は大きなビルが建ちきれいなまち並(な)みになっている川崎駅西口。上の写真のころは大きな工場が多く立ち並(なら)び、そこで働く人びとの家が集まっている場所でした。やがて、工場が別の場所に移(うつ)ったり、ものづくりをやめてしまったりして、工場だった土地にお店の入った商業ビルや高層(こうそう)マンションになったのが下の写真です。2つを比(くら)べてみても、同じ場所には見えないですね。このように再開発(さいかいはつ)によってまちは生まれ変わっていくのです。

川崎駅西口再開発の目玉はミューザ川崎

ミューザ川崎

 平成16年7月に『ミューザ川崎シンフォニーホール』という音楽ホールができました。この大きなホールではおよそ2000人の人たちが演奏(えんそう)を聞くことができ、有名な音楽家がすばらしい演奏(えんそう)を披露(ひろう)しています。川崎市のセールスポイントは『音楽のまち・かわさき』ですが、そのシンボルとなり、多くの人が集まっています。またミューザの反対側にも、もう一つ大きなビルや高層(こうそう)マンションが建ちました。『ラゾーナ川崎プラザ』には、家電量販店(かでんりょうはんてん)、書店、スポーツクラブ、映画館(えいがかん)などが入っています。たくさんの人びとが集まり、にぎわっています。

「夢(ゆめ)こんさぁと」を支(ささ)えている人たち

 「身近な区役所でだれもが楽しめるコンサートを」。そんな思いから、平成8年、地域(ちいき)の人たちが中心となって、幸区役所で初めてのコンサートを開きました。今では区役所と地域(ちいき)の人が協力しあって行う「夢(ゆめ)こんさぁと」として親しまれています。平成16年からは、日吉出張所(ひよししゅっちょうじょ)でもコンサートを定期的に開くほか、区内のさまざまな場所へ出前コンサートも行うようになりました。50回目の記念コンサートは、ミューザ川崎シンフォニーホールで行いました。これからもまちと音楽を愛する人たちで続けていく予定です。

夢こんさぁとの写真

区役所で開催(かいさい)している夢(ゆめ)こんさぁと

ミューザで行った記念コンサートの写真

夢(ゆめ)こんさぁとの記念コンサートをミューザで行いました

幸区シンボルマーク

さいわいくシンボルマーク

 幸をローマ字で書くとSAIWAIです。この頭文字「S」と限(かぎ)りが無いという意味のマーク「∞」を組み合わせました。二つの輪がつながっていることで、幸区に住むみなさんの深いつながりと、無限(むげん)に成長するまちをイメージしています。地域(ちいき)に住む人の温かい気持ちと、未来に向けてどこまでも成長する可能性(かのうせい)にあふれた区を表しています。
平成5年1月1日 制定(せいてい)

幸区の木・幸区の花

 幸区誕生(たんじょう)40年を記念(きねん)して2012(平成24)年に区の木を「ハナミズキ」に区の花を「ヤマブキ」に制定(せいてい)しました。

 幸区役所の庁舎(ちょうしゃ)には、幸区の木・幸区の花の名前をつけた、ロビー「ハナミズキ」、ラウンジ「ヤマブキ」があります。

川崎市内でもっとも狭(せま)い箇所(かしょ)?

川崎市マップ

 川崎市は、全体が細長い地形で、もっとも長いところで33.13kmですが、幸区には、市内でもっとも狭いところがあります。

 それは、多摩川(たまがわ)に近い戸手(とて)4丁目のポンプ場付近から塚越(つかごし)4丁目の横浜市との境(さかい)あたりまでの約1.2kmの距離(きょり)です。一度、みなさんも、地図で確(たし)かめてみてください。

国宝(こくほう)の第一号は幸区から

 加瀬山(かせやま)にある白山古墳(はくさんこふん)のふもと付近から発見された「国宝(こくほう)秋草(あきくさ)文壺(もんつぼ)」は平安時代にお骨(こつ)を納(おさ)める壺(つぼ)として用いられました。高さ、40.6センチ、胴回(どうまわ)り29センチの焼き物で、表面には、すすき、瓜(うり)、とんぼなどが線で描(えが)かれています。

 12世紀の日本の壺(つぼ)を代表するもので、陶器(とうき)の国宝(こくほう)に認(みと)められた第1号なのです。

 今は、慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)が保管(ほかん)していますが、国立博物館で展示(てんじ)されていることがあります。チャンスがあったらぜひに見に行ってください。

わが国最初の工業用水

 川崎市の海に近い地域(ちいき)に工場地帯ができはじめたのは昭和5年ごろ。工場に必要な用水は、当時、それぞれの工場ごとに井戸(いど)を堀(ほ)り、地下水をくみあげていました。

 しかし、地下水をくみあげすぎて、枯(か)れてしまわないよう、市では工場と相談をして、工業用水道を造(つく)ることになったのです。

 完成したのは昭和14年。大師堀(だいしぼり)などから水を引いて、工場地帯に送り込(こ)みました。

市内最初の近代水道

 今の、幸文化センターの場所には市内最初の近代的な水道施設(すいどうしせつ)である戸手浄水場(とてじょうすいじょう)がありました。これは、飲料水に恵(めぐ)まれなかった川崎町(当時はまだ川崎市ではなく、川崎町といっていました)にとって、とても助かることでした。

 完成は、大正10年。市内でも水質(すいしつ)のよい宮内から多摩川(たまがわ)の水を取り入れ、約7キロメートルの導水管(どうすいかん)で戸手に導(みちび)きました。

 このことをあらわす「川崎市水道発祥之碑(かわさきしすいどうはっしょうのひ)」が現在(げんざい)の、幸文化センターの前に建っています。

小倉(おぐら)のトマトケチャップ工場

オムライスのがぞう

 みなさんは、チキンライスやオムライスが好きですか?どちらもトマトケチャップ・ソースが欠かせません。明治時代の始め、小倉ではトマトの栽培(さいばい)がさかんに行われていました。

 当時、トマトは「あか茄子(なす)」と呼(よ)ばれていたそうです。そして大正時代にはトマトケチャップ工場もできましたが、そのころはまだ身近な食べ物ではなく、東京の洋食屋さんまで売りに行っていたそうです。

 

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お問い合わせ先

川崎市幸区役所まちづくり推進部企画課

〒212-8570 川崎市幸区戸手本町1丁目11番地1

電話: 044-556-6612

ファクス: 044-555-3130

メールアドレス: 63kikaku@city.kawasaki.jp

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