妙光寺
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田中休愚の墓
住所
幸区小向20-1
交通案内
JR・京浜急行「川崎駅」西口から川崎市バス川73系統「上平間」「井田営業所」行き「妙光寺前」下車、すぐ
地図
解説
幸区の日蓮宗妙光寺には、『民間省要(みんかんせいよう)』を著し、幕臣に取り立てられた人物として著名な田中休愚(きゅうぐ)の墓があります。休愚は諱(いみな)を喜古(よしひさ)、みずからは休愚、休愚右衛門と称し、冠帯老人・武陽散民とも号しました。寛文2(1662)年に武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、長じて農業の傍らに絹織物の行商などもおこない、やがて武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになり、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子になっています。
宝永元(1704)年には、家督を継ぎ本陣の当主となり、まもなく問屋・名主も兼帯し、宝永6年には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基を築きました。しかし、休愚の活躍は、むしろこの後に本格化します。正徳元(1711)年に問屋役などを子の休蔵に譲り、やがて江戸に遊学し、荻生徂徠や成島道筑などに学び、享保5(1720)年には、西国行脚にも出ました。50歳を過ぎてからのことです。そして、休愚は享保6(1721)年にみずからの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのでした。
同書は翌年、成島道筑や大岡忠相によって、将軍吉宗へ献上され、休愚に民政への期待が寄せられることにもなりました。享保8年には、早速、十人扶持が給され、享保期の普請関係の役人として著名な井沢弥惣兵衛の指揮のもと、荒川や多摩川、六郷・二ヶ領用水の普請に関係しています。さらに享保11(1726)年には、これらの事績が認められ、大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川の治水工事を行うことを命じられます。この工事は難工事で関東郡代伊奈や小田原藩も手をこまねいていたものです。しかし、休愚は地元農民の力を巧みに引き出し一応の成果を収めました。
幕府は、これを高く評価し、享保14(1729)年7月、休愚を武州多摩川周辺3万石余を支配する代官(勘定支配格(かんじょうしはいかく))に抜擢しました。しかし、惜しいことに5ヶ月後の12月22日には、江戸の役宅に没したのでした。享年68歳。妙光寺の休愚の墓の周辺には、彼の手代達なども発起人に加わり建立された灯籠や、彼の子で跡を継いで代官となった休蔵による休愚の碑文、そして、その休蔵の墓をはじめ、田中家代々の墓もあります。
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